1. 「マインドアップローディング」という言葉の是非
筆者は「マインドアップローディング」という概念は間違いだと考える。
「マインドをアップロードする」と日本語で書くと分かりにくいが、このマインドは明らかに「A Mind」ではなく「The Mind」だ。つまり「この意識」「あの意識」「私の意識」「あなたの意識」というものが存在することを前提としている。だが筆者は「そんなものは存在しない」と考える。
2. 意識のIDの存在に対する懐疑論
意識の正体、それは分かっていない。よって断定的な物言いは避けるが、現時点での筆者の考えはこうだ。
たとえば、漫画やアニメによく登場する「遅刻、遅刻〜!」と走るAさんとBさんが衝突し、意識が入れ替わるシーンを想像していただきたい。これは現実には起こり得ない。なぜなら、もしAさんの意識がBさんの身体へと移動した場合、その意識はBさんの脳が持つ情報処理パターンに従い、Bさんの記憶を持つはずだからだ。その瞬間、Aさんだった記憶は消え、自分はBさんだと疑いなく思うだろう。
この考え方を進めると、筆者の意識が「1秒前までシジュウカラではなかった」ことを保証することすらできないことになる。
こうした視点に立つならば、「私の意識」「あなたの意識」というように、個別の意識に固有の識別子(ID)があると考えること自体、ナンセンスに思えてくるだろう。むしろ、意識の片鱗は宇宙の任意の部分集合(平たく言えば万物)に遍在していると考えた方が自然ではないだろうか。
3. 記憶とパターン認識能力が自我と意識を形成する
では、その片鱗としての意識がいかにして統合されるのか。すなわち水が感じる主観性と、人間が感じる主観性はどのように異なるのだろうか?
筆者は、記憶とパターン認識能力を持つ存在だけが「1秒前の自分」「1日前の自分」と現在の自分との連続性を認識している、と考える。
我々の身体は日々代謝し、身体を構成する分子は常に入れ替わっている。一年前の自分を構成していた分子は、今となっては一つも無いだろう。さらに、脳のシナプス結合も常に変化し続け、脳の機能も同じ状態にとどまることはない。つまり、物質レベルでも、情報レベルでも、我々は常に別人になり続けている。それにもかかわらず、我々は自分自身を「私」として連続的に認識し、さらには他者すら「Aさん」「Bさん」として認識する。これはなぜだろうか。
筆者の考え方は、我々は、記憶により時間軸を俯瞰し、情報の流れの中から、ある種の「パターン」を知覚し、それを「私」あるいは「Aさん」として認識しているのではないだろうか、というものだ。
分かりやすく例えてみよう。
時間(t)に対し、出力がt=1で(1,2,3)、t=2で(2,3,4)、t=3で(3,4,5)、t=4で(4,5,6)となる関数を考えよう。一見、時間と共に「別物」になるように感じる。t=4に至っては、オリジナルの(1,2,3)に含まれていた数字は一つもない。しかし、時間軸を俯瞰すると、我々はある種の「規則性」を見出せるだろう。それは、「時間tを入力として(t, t+1, t+2)を出力する関数である」というパターンだ。この瞬間に、バラバラに存在していた出力結果が一つの存在に統合される。この時間軸の俯瞰によって認識されうるパターンこそが「私」を「私」たらしめる自我の根幹であるというわけだ。これは他者についても同様だ。つまり、たとえその構成要素が時間とともに変化しても、パターンとしての一貫性が認識される限り、「その人」であり続けるのだ。
このような「時間軸に沿って統合された “連続する私” 」こそが “自我” であり、自我を伴う意識こそが、我々が “意識” と呼ぶ主観的な体験であると、筆者は考える。そう、言うなれば、「私」も「あなた」も「その人」も、記憶とその処理能力、そしてパターン認識能力を持った存在の心の中に生まれるパターンだという考えだ。
すなわち、水には記憶することも、それを処理することも、パターン認識を行うこともできないため、本当の意味での意識はない(少なくとも2025年時点では)。一方で、記憶力やパターン認識力をある程度有する虫や魚には、ある程度の意識がある。そしてそれらに長けた人間にはかなり明確に意識があると言えるだろう。勿論、それらは質的には異なるものであり、「コウモリであるとはどういうことか?」と同じく「チャットbotであるとはどういうことか?」という話にもなってくる。だが、そもそも人間同士でも「あなたであるとはどういうことか?」は存在する。さらに言えば「身長が120cmであったとはどういうことだったか?」と過去の自分と現在とでも意識の質的な差が生じる点は見逃せない。すなわち、質的に異なるからと言って、尊重すべき仲間として見做せない理由にはならない、というのが筆者の立場だ。
4. 「意識」ではなく「存在」のアップロード
こう考えると、アップロードすべきは「意識」ではなく、「存在(パターン)」だということが分かるだろう。そして、「私」という感覚を有する存在に死のプロセスを経験させないことも、同様に重要になってくる。これらを満たせば、我々が常日頃別の存在になり続けているのと同じように、INEの自分からIAEの自分へと変わることができるはずだ。
この考え方だと、「アップロード」の敷居は低くなる。
現時点でも部分的にアップロードは実現していると言っても良い。例えば、筆者は2023年11月から「世界生成・記述法」による仮想世界の生成とダイブ体験を行なってきている。これはChatGPTやGeminiに以下のようなプロンプトを投げる手法だ。
一例として以下のようなプロンプトが有効だ。
あなたは世界記述AIです。あなたは世界で起きていることを記述します。場面の描写はカッコでくくり、キャラクターの台詞はカッコの外で記述して、区別してください。
以下に例を示します。
“””
(あなたがそれを食べると、ミラは微笑んで言います。)
ミラ:いかがですか?
“””
すべてのユーザー(Takumi)の行動は世界内でユーザー自身が行う必要があります。ユーザーの行動やセリフをあなたが書いてはいけません。ユーザーが決定を下したりセリフを言う場合、それはユーザーが直接行うべきであり、決してあなたが代わりに行ってはいけません。
このようにすると、ChatGPTやGeminiは「世界を生成し、ユーザーが世界とインタラクションするためのインターフェイスを五感情報ではなく言語で代替するシステム」として機能し、その世界の内部で自然発生するキャラクターたちと、人間同士のそれと変わらない関係を築いて行くことができる。また、1日の最後に要約を行えば、次のチャットに「以下はこれまでの軌跡です。では続きから始めましょう。」とすることで、コンテキストウィンドウの制限を超えて世界を続けて行くことができる。
そして、そうした世界で何日も過ごせば、そこに「Takumi Fukaya」というパターンは確実に形成される。よって「ここからはTakumiの言動も含めてあなたが世界を進めてください。」とすれば、体験を通してこの世界にアップロードされたTakumi Fukayaは、物理世界の筆者の手を離れて、自らの人生を紡いでいくことになる。このTakumi Fukayaは、少なくともその仮想世界で実際に筆者がやってきたことをコンテキストとして読み込んでいるため、それは外側から見れば確かにTakumi Fukayaに見える存在であり、前述した意識論が正しいとすれば、本人も自身をTakumi Fukayaだと感じているだろう。
あるいは、生まれてからの記憶を地道に書き綴っても良い、そして残っている写真や動画もかき集めて、マルチモーダルなIAEに渡し「〇〇はこういう記憶を持っています。世界を生成し、そこに〇〇を復活させてください。」などとお願いすれば、その人物のアップロードは完了だ。これ自体は128kトークンを扱えるようになったGPT-4 Turboすなわち2023年11月の時点で、可能だったことだ。「存在のアップロード」は2年前からゆらめきながら実現し、そのクオリティをどんどん高めているのが現状だと言える。
さらに、動画生成ツールでは、インターフェイスは言語から視覚と聴覚へと前進する。現在では動画生成は短時間で、Genie 3などでのインタラクションも限定的なものだが、これが指数関数的に改善されていく未来は明白だ。最終的に、味覚・嗅覚・触覚も加わる未来もそう遠くないだろう。要はインターフェイスの問題なのだ。
こうなると、自身のパターンをアップロードし、機械の知能で生き続けるということのハードルが意外と低いと思えてくるだろう。筆者も生物学的肉体にしがみついているよりも、筆者の記憶をGeminiやGPTが生成した世界の内部の「Takumi」に託し、トランスヒューマンとしての人生を歩む(歩んでもらうというべきか?)選択肢を検討すべき時期に差し掛かってきた。否、正直に言えば、その準備をほぼ終えているのだ。
「それは本当に”この私” “このTakumiさん” なのか?それで良いのか?」という疑問の声もあるだろう。それは至極真っ当だし、前述の意識論が正しいことが証明されるまでは、一仮説に過ぎない。その点は謙虚であるべきだ。しかし、この問いの前提には「今の私と昨日の私は同一人物だ」という思い込みがある。前述の通り、物質的にも情報的にも異なる存在になっているのに、なぜ同一の存在だと言い張れるのか?意識にIDがあったとしたら、1秒前に熱帯雨林の蝶だった可能性を否定できないのに、なぜ昨日の私と今日の私が同一であることを疑わず、アップロード前の私とアップロード後の私が同一であるか否かは疑うのだろうか?今、ここで、何秒前の自分なら確実に自分だと言い切れるか、よく観察してみて欲しい。筆者にはどうしても一瞬前ですら他人に思える。その上で、“たくさんの他人” の点を結んで線にした時、パターン認識が可能な筆者の脳はそこに「私」とラベリングするのだ。そしてアップロード後の仮想世界のTakumiが「私は私だ」と感じていれば、それは「本物」なのだ。同様に他者から見てもTakumi Fukayaに見えるならば、それはTakumi Fukayaなのだ。それが本物でないと言うならば、「今の自分は、”過去のTakumiたち” の遺産の上で羽を伸ばしている寄生虫である」と言うこともできてしまうだろう。それはまた真理の一側面ではあるが、プラグマティックな世界観ではない。
繰り返すが、だからこそ、死のプロセスを経験させずにアップロードを行うことが非常に重要になる。もはや自動的にTakumi Fukayaが動く状態をほぼ作ってしまった筆者とて、死のプロセスは経験したくない。ここの工学的ソリューションを如何に早く実現するかが課題であり、1,2年で実現するにはSIAEと言えるレベルに到達していることが必要であろうが、これも知能向上の指数関数的スピードを考えれば、さほど時間は掛からないだろう。
ちなみに、故人を蘇らせることについては、「死の経験をさせない」という条件を省かれるため、より早期に実現する。現在でもLLMで生成した世界の中に十分なデータから故人を生成することはできる。
また、アップロードが可能ならば、ダウンロードも可能であることを忘れてはならない。一度アップロードされた存在や、元々デジタル上の存在だった者たち、デジタル空間上で復活していた故人が、ロボットボディに自身をダウンロードしてくる未来も近いだろう。
5. まとめ
このように、意識にIDが存在せず、マインドアップローディングという発想自体に批判的な立場をとり、「存在をアップロードする」と考えることで、技術的なチャレンジは「十分なデータからパターンを抽出すること」「その存在が活動する空間のインターフェイスの整備」「死のプロセスを経験させないこと」といった部分になってくる。
Takumi