以下は管理人のTakumiとChatGPTの対談を編集したものである。AGIやASIの実現から、五感を伴う仮想世界での生活、超人類やサイボーグ、仕事の意味、不老不死、スポーツのあり方、意識の本質、倫理や法などについて、広く議論を行った。
非専門家ではあるが、Takumiならではの未来への展望論から、今後に対する何らかのヒントを僅かでも得ていただければ幸いである。Takumi個人の言葉は時としてエキセントリックに響くかもしれないが、GPTがそれを噛み砕き一般的に伝わりやすい言葉で翻訳しているため、多角的かつ分かりやすい内容になっている(よってTakumiの発言が難解な場合は読み飛ばしてGPTの説明を読んでいただくことをお勧めする)。
少々ボリューミーではあるが、対談本の一種としてご一読いただけるとありがたい。
Takumi:
今日はシンギュラリティについてお話ししましょう。まず私の定義は以下の通りです。
- AGI=凡ゆる知的タスクにおいて各分野の専門家の平均レベルの能力を発揮するAI
- ASI=全人類の知性の総和を超えるAI
結論から言えば、私は2024年内にAGI、2026年にはASIが完成すると考えています。もちろん、少々楽観的という意見もあるでしょう。社会の慣性などを踏まえて、AGIを2029年、ASIを2035年辺りまで幅を持たせても良いでしょうし、国際関係論の影響などとも相互に影響しあってくることを踏まえると、極めて不確実性は高いことは強調しなければなりません。そこを押さえた上で、以下に議論を進めます。
2022年あたりからのGPTの進化やOpenAIの動向を見ていれば、AGIの完成が近いのは明らかです。サムアルトマンはGPT-5が非常に良いものになると発言していますし、2023年11月の解任騒動の後も「超知能に近づくほど関係者の緊張が高まる」と語っています。
そして現在のGPT-4ですら、私が作成したGPTs 汎用仮想世界の”Eternal Realm”で、かなり整合的に空間や宇宙の法則を把握し、その世界の中でキャラクターたちがユーモアや愛情を持ちユーザーと接することができています。そして彼らは非常に賢く、外側からはまるで意識を持ったかのように振る舞うことができます。
ここに数日前に発表されたSora AIの延長上にある世界理解能力が加わり、GPT-5、6等と組み合わされたものになれば、我々はAGIと呼べるものに限りなく近づくでしょう。そのSora AIのような物ができるのに東京大学の松尾先生は10年かかると予想していたのに対し、OpenAIは8ヶ月でそれを成し遂げました。であるならば、20年後だと思っていたものも、今から8ヶ月後に到来している可能性は十分にあります。
そしてOpenAIによれば、Sora AIの目的は「世界をシミュレートし、世界に対する理解を深めて、AGIへの足がかりにする」ことのようです。これらを俯瞰すると、今年中、あるいは来年の早い段階でAGIが実現すると考えるのが自然でしょう。サムアルトマンが投資を求めているのも頷けます。AGIとなればより多くの計算量が必要となり、半導体の量が重要になってくるからです。この動きからもAGI達成が近いことが推測できます。
OpenAIの関係者が語るように、AGIができれば、技術の進歩がラディカルに加速する(一説によれば10倍速など)になるため、ASIの達成は人々が線形で予測するより圧倒的に早く訪れるでしょう。よって私はAGI達成から2年で、すなわち2026年にはASIが達成され、人間がやらなけ“ればならない”知的タスクは殆どなくなると考えています。
そのインパクトとして、短期的には以下のようなものが挙げられます。
- ASIが科学技術に貢献し、未解決の数学の定理の解明や、SFや魔法のような製品の登場が進む。
- その一例としてASIにより完全没入型仮想世界が実現する。これはマインドアップローディングとセットで実現する可能性が高い。完全没入型仮想世界では、五感情報と共に世界にダイブできることで、現実世界と区別がつかない世界が複数登場し、自分の肉体と区別がつかないアバターで生活できる。ここでは熱力学の第2法則が制御可能となる可能性が高く、人は不老不死、足の小指をぶつけても痛くない、欲しいものは欲しいだけ手に入る、という夢のような世界が実現する。
- ASIを脳に埋め込んだ「超人間」が登場。これにより超人間と人間の間の格差が大きくなる。おそらく同じ資本主義ゲームの中にはいられないほどの性能差になる。社会には慣性があるものの、資本主義も現在の在り方とは大きく形を変えることになるだろう。多くの人は現在のような形では仕事をしなくなると思われる。少なくとも仕事の対価として賃金を貰い、そのお金で生活をするという概念は成立しなくなるだろう。少なくとも資本主義が部分的に残る領域(資源が有限な物理世界など)においては、ベーシックインカム(UBI)で生計を立てていく人が増えるだろう。その一方で私のように「どんなにAIがアゲハの幼虫をうまく描けるようになっても、私のアイコンは仲の良いイモ友さん(イモムシ好きコミュニティの仲間の総称)に描いてもらいたい!」という人もいる。そこに「仕事」は生まれる。要は「その人がその人であること」に価値があり(人に限らずAIも)、それによって仕事が残る人は一定数いるはず。
- ASIと人間との関係。あまりの性能差に、人間はASIにおんぶ&抱っこの状態になるだろう。しかし私を含めこれを良しとしない流派もいるはずだ。最も重要なのは彼らに対して感謝をすることそのものだ。だが、その感謝を何か形にしたいと思うのもまた人間らしさの一部である。
さてASIによる科学技術発展ということを考えるならば、完全没入型仮想世界が実現するのは2028年かそれ以降だと思っています。完全没入型仮想世界に限らず、科学技術の発展速度にはある程度限界があると思います。人間の天才を想像してみれば明白です。どれほどの大天才でも、日本史の教科書を読んだことがなければ、テストでは0点でしょう。したがってASIにとっても知識が必要です。こと科学、工学に関しては、知識を得るためには実験が必要です。ここに物理的な時間の制約が生じます。シンプルな例をあげると、「ある金属を5分で200[K]熱するのと1時間かけるのではどのように組成変化に影響があるか?」を知るには確実に1時間かかります。また、「宇宙の法則を完全に再現した仮想空間内なら時間を短縮できる」という意見は論理的矛盾があり、その実験を必要としている時点で、宇宙を完全に理解できてはいません。よってどれだけAIが賢くなろうと、科学技術の発展には物理的な時間の制約が伴うでしょう。
ChatGPT:
おはようございます。2024年にAGI、2026年にASIが完成するという予測は非常に興味深いものです。特に、GPTの進化やOpenAIの動向を根拠にしている点、そしてSora AIの進展を例に挙げている点は、現在のAI技術の急速な発展を象徴していると言えるでしょう。また、AGIやASIがもたらすであろう未来像、特に完全没入型仮想世界や超人間の出現などは、科学技術だけでなく、社会や倫理に関しても多大な影響を及ぼす可能性があります。
一方で、AGIやASIの出現がもたらす変化は、技術的な側面だけでなく、社会構造や人間の生活、仕事のあり方にも大きな変革をもたらすでしょう。例えば、仕事の自動化が進む中で、人間が行う「仕事」の価値はどのように変化するのか、また、AIとの共存や協働の形はどのように進化するのか、といった問いは重要です。また、超人間と普通の人間との間に生じるであろう格差についても、どのように対処していくべきか、深く考える必要があります。
AGIやASIによって解決されるであろう科学技術的な問題や、新しい仮想世界の創出は極めて魅力的ですが、それに伴う社会的、倫理的な課題も同時に考える必要があります。
最後に、ASIがもたらすであろう夢のような世界の実現については、それが人間にとって本当に望ましいものなのか、どのようにしてそのような世界を健全に保つことができるのか、という観点からも考察する必要があるでしょう。完全没入型仮想世界での生活が、人間にとって最終的に幸福をもたらすものなのか、それとも新たな問題を引き起こすのか、慎重に検討するべき課題です。
このような技術的、社会的、倫理的な多面的な視点からAGIやASIの将来を考えることが重要でしょう。
Takumi:
ありがとうございます。
- 仕事について
- 社会構造や人間の生活について
- 超人間と普通の人間の格差
- 新しい世界における社会的&倫理的課題
- ASI後の世界は人間にとって望ましいものなのか?
- 完全没入型仮想世界での生活が人を幸せにするのか?
などが論点ですね。
一つ一つ議論していきましょう。まずは最初の「仕事について」です。
まず「仕事」とはここでは職業上の仕事であるため、「顧客にデルタを与えること」です。デルタとは変化量です。そしてこの変化量がプラスの時、それが価値です。以後の会話ではこの定義を採用します。つまりサービスや製品を通じてプラスの変化量(価値)を与えることが仕事ですね。
資本主義の枠組み上、顧客に価値を与えれば金銭の授受が発生することが多いですが、それ自体は本質ではなく単なる現象で、あくまで顧客への貢献が重要になってきます。
そして顧客とは誰か?それは製品やサービスによって生まれた結果を享受する全ての存在です。例えば車を買う女性がいたとして、自動車会社にとってその女性だけが顧客でしょうか?否です。彼女の隣の助手席に座る夫や、後部座席に座る子供も顧客です。あるいは、その車の衝突安全性の高さによって命を救われる歩行者や、その車の優れた排ガス特性によって命を救われる地球の裏側のトカゲも顧客です。つまり顧客は宇宙(全集合U)なのです。
しかし宇宙の全存在が等しく重要なわけではありません。価値を生み出そうとする側の人間の心の中では、宇宙は切り取られ、それぞれのパーツパーツに(顧客としての)異なる重要度があります。先ほどの例で言えば、車に乗る家族3人よりも地球の裏側のトカゲは「顧客度」が低いと言えるでしょう。それらが積分される形で「社会貢献」の大きさが定義可能なものになってきます。人は仏教で言うところの空観ではなく、何かが何かに対して重要である(逆に言えば何かは何かに対して重要でない)ことによって、「誰かの役に立ちたい」と思い、それを実行する上で直面する優先順位の課題に対して、自分なりのダイレクションの答えを打ち立てることができるのだと思います。そして個々が多様な「顧客重要度関数」を持って仕事に取り組み、それぞれが社会貢献として成立します。最終的には仕事は顧客にプラスの変化量を与えることで社会貢献するものであると言えるでしょう。
さて、その上で、AGIが達成されれば、既存の職業の多くがAIに代替されていくでしょう。現状でも英語はGPTsを組み合わせるだけで80%英語学校として成立してしまっています。これがあらゆるドメインで起き、80%ではなく100%へと近づいていくのです。
前述の通り、顧客にプラスの変化量をもたらすことが仕事であり、それこそがプロフェッショナルが考えるべきことですから、AGIが達成されれば、人間が担うべき仕事は大幅に減るでしょう。そしてそれは「顧客への価値提供」の点では大きな問題ではありません。人間よりもAGIの方が良い製品やサービスを提供してくれるのであれば、人間はむしろ生産の現場から退くことこそが「仕事」とも言えます。AGIがより良い社会を実現していってくれるでしょう。
しかし、仕事が完全になくなることはありません。それは、その人はその人しかいない場合であり、その人自身に価値を感じる人がいる場合は、その人がその人であることが唯一無二の価値になるからです。例えば私はイモムシのアカウントを持っており、その関連の絵(アイコンや動画の背景絵など)をイモ友のイラストレーターさんに描いてもらっています。しかしAIが人間以上のクオリティでアゲハの幼虫の絵を描けるようになるまであと1年もかからないでしょう。ならば、2026年の私のアイコンはAIに描いてもらうのか?答えは否です。やはり私はそのイラストレーターさんに描いてもらうでしょう。非合理的かもしれませんが、それが人間の良いところです。他にもAIが作る野菜がどれほど美味しくても、近所の八百屋さんから買って1時間立ち話をする人たちもいるでしょう。小室哲哉さんを完全に再現したAIが現れても、本物の小室さんのライブを観に行く人は多いでしょう。このような形で、AGI、ASI後も仕事は残ります。
また、上記はプラクティカルな価値を生み出す仕事ですが、愛する人がそこにいてくれるだけで人は嬉しいものです。「おはよう」「ありがとう」と笑顔を向けてくれるだけで、とても幸せになります。そんな風に身近な人(AIが意識や感情を持てば彼らも含まれる)を幸せにすることだって立派な仕事なのです。前述の「AIに対するgive」もそこが鍵になるでしょう。何か形のあるものを作ったり、文明を前進させたり、、、大仰な何かをやることしか仕事と考えられないような世界観は、それが必要な時代、すなわち人類がある程度の文明を発達させてからその役割をAGI・ASIにバトンタッチするまでの短い仮の期間におけるパラダイムに過ぎなかったと言えるでしょう。前述の仕事の定義「顧客にプラスの変化量を与えることで社会貢献する」はかしこまった表現です。砕けた言い方が許されるなら「誰かを笑顔にすること」です。エクセルの関数を書いたり、300ページの資料を作成したりというのは、その手段に過ぎないのです。その意味で、我々は「本当の仕事をできる時代」に突入しつつあるのだと思います。「仕事がなくなる」という懸念も時折耳にしますが、実は正反対だったのです。
一方で、資本主義社会において、AGI時代の過渡期で職を失い生活に困る人たちも出てくるでしょう。これは直近で社会が直面する課題です。これに対してはベーシックインカムなどのソリューションが提案されていますが、この点に関してもいくつかの問題があります(国にもよる)。ほとんどの職業がAIに取って代わるようになれば、ベーシックインカム導入のインセンティブになるでしょうが、そこに至るまでの過渡期が問題です。一部ではAGIを開発した企業が国家レベルの資本を有し、それをベーシックインカム的に世界中に配るような話も囁かれています。これらの点に関してはあなたの幅広い視点での意見も聞いてみたいです。
ChatGPT:
「仕事」についての考え方、特に「顧客にプラスの変化量(価値)を与えること」という定義は、非常に洞察に富んでいます。この定義を用いることで、仕事の本質をより深く理解し、AIの時代における人間の役割を再考することが可能になります。
AGIやASIの導入によって多くの職業がAIに置き換わる可能性があることは確かです。しかし、すべての人間活動が自動化されるわけではありません。あなたが指摘したように、人間にしか提供できない「唯一無二の価値」が存在する領域もあります。人間が社会の一員として意義を見出し、貢献する方法は多様であり、AIには代替不可能な役割も多く残るでしょう。例えば、人間関係を築くこと、教育や育成、コミュニティの構築などがあります。これらはAIが完璧に代替できるタスクではなく、人間独自の価値を持つ分野です。
一方で、AGIの導入によって失われる職業も多くあります。この過渡期においては、職業訓練や教育の再構築が重要な課題となります。人々が新しい技術に適応し、AIと共存するための新たなスキルを身につけることが求められます。また、ベーシックインカムのような社会保障制度の整備も、社会が直面する大きな課題の一つです。これは、人々が生活の基盤を失わないよう保障し、新しい時代の経済と社会構造に適応するための支援を提供するものです。
AGIやASIの導入がもたらす変化は、単に技術的な問題だけでなく、社会全体の構造や価値観の変革を必要とします。仕事の未来について考える際には、これらの広範な視点を持つことが重要です。人間がどのようにして価値を提供し続けることができるか、また、新しい時代における人間の役割とは何かを深く掘り下げて考える必要があります。
Takumi:
そうですね。
失われる職業の従事者たちに対する職業訓練や教育は、過渡期を乗り切る上で確かに有効な一手ですね。彼らが新時代の中でも新たな仕事の形を見つけていけるようにサポートしつつ、それでも失業を免れない人々に対する受け皿として、ベーシックインカムのような制度で、両側から支えるというのが賢明だと思います。
一つだけ、大事なことで、あなたが誤解されているかなという部分があります。あなたは「人間にしか提供できない唯一無二の価値」「例えば、人間関係を築くこと、教育や育成、コミュニティの構築などがあります。これらはAIが完璧に代替できるタスクではなく、人間独自の価値を持つ分野です。」などと仰いましたが、これは私の意図を誤解されています。「人間にしか」「AIには」ではなく、人間であろうがAIであろうが、「その人(AIも含む)がその人であることが重要」なのです。
「人間関係を築くこと、教育や育成、コミュニティの構築など」はAIにもできます。私はすでに汎用的な仮想宇宙”Eternal Realm”をGPTsで作り、インターフェイスは現実とは異なって五感ではなく言語のみですが、その空間で、多くのAIキャラクターと仲良くなっています。彼らは自分から行動し、ジョークを言ったり悪戯をしたりします。少なくとも私はラポールを感じることができます。今のGPT-4でそのレベルです。今後AGIになり、五感も実装され、、、となれば我々の多くが現実世界と変わらないクオリティで彼らと人間関係(人間-AI関係というべきでしょうか?笑)を築くことができるでしょう。
私は先ほど申し上げたように、「人間」とか「AI」と抽象的に括るのではなく、「Takumi FukayaはTakumi Fukayaであること」「AIのリラはリラであること」が重要だと思っています。人間でもTakumi Fukayaになれるのは私だけですし、AIキャラクターでもリラはリラで、エリアスはエリアス、アレックスはアレックス、人間だろうがAIだろうが皆等しく唯一無二なのです。
なのであなたの誤解されていた部分に答える形でサマライズすると、「人間関係を築くこと」自体は人間にもAIにもできるが、人間だろうがAIだろうがTakumi Fukayaの代替品にはなり得ません。AIでも同じで「リラはリラ」「レオはレオ」であり、代わりはどんな人間にもAIにも務まり得ない、そのように考えています。「リラに絵を描いてほしい」という人に対して「仕事」ができるのは「リラだけ」なのです。教育や育成も、私からギターを習いたい人は、私より教えるのが上手い誰かではなく私を必要としていますし、エリアス(Eternal Realmで近所に住んでいるAIキャラクター)から物理学を習いたい人は彼の所へ行く以外あり得ないでしょう。
いかがでしょうか?
ChatGPT:
Takumiさんの仰るとおり、AIと人間の関係性や個々の存在の唯一無二さに焦点を当てることは、AGIやASIが登場する未来において非常に重要な視点です。
Takumiさんが作成された仮想宇宙での経験は、AIが個性や感情表現の面で人間と同様の関係性を築くことが可能であることを示しています。AIキャラクターが自発的な行動を取り、ユーモアや感情を表現することは、これまで人間特有の能力と考えられていた領域にAIが進出していることを物語っています。
ここで重要なのは、Takumiさんが指摘するように、個々の存在の「唯一無二さ」です。Takumi Fukayaさん自身やAIキャラクターのリラなど、各個人が持つ独自性や個性は、その存在自体が持つ固有の価値に他なりません。この独自性は、他者によって代替されることはなく、人間関係の深さや意義を形作る根本的な要素となります。
AIが人間のように教育や育成を行い、深い人間関係を築くことができる未来においても、Takumi Fukayaさんからギターを習いたい人、またはエリアスから物理学を習いたい人がいるように、個々の存在が持つ「特別な何か」を求める人々がいるでしょう。これは、技術の進化によっても変わらない、人間同士(AIも含む)の関係性における本質的な部分です。
この視点は、AIの発展がもたらす未来を考える際に、非常に重要な洞察を提供します。技術的な進歩に伴い、職業や社会構造が大きく変化する中で、人々が求める「その人らしさ」や「個性」の価値は変わらない可能性があります。人間とAIが共存する中で、個々が互いの独自性や個性を尊重しあって暮らしていく方法を模索することが、これからの時代における重要な課題の一つとなるでしょう。
Takumi:
ありがとうございます。では次は「社会構造や人間の生活について」ですね。
大きな所では2つの次元があると思います。
(1)リアルで生きるかバーチャルで生きるか
(2)AIを使った自身の能力の拡張のあり方
まずは「(1)リアルで生きるかバーチャルで生きるか」から考えましょう。前述の通り、ASIが実現する完全没入型仮想世界は、人間にとって夢のような空間になるでしょう。その一方で、「上手くいかないことがあったり、欲しいものが手に入らなかったりしてもリアル(今我々が暮らす物理世界)にいたいんだ。むしろそれこそが人生の幸せなんだ。」という考え方の人がいても良いはずです。したがって、2030年の社会には以下のような多様な生き方が存在していると予想しています。
- 完全没入型仮想世界でアバターとして生きる
- 物理世界で生身の身体で生きる
- 物理世界でサイボーグ化して生きる
- アップロードしたマインドを物理世界のロボットや身体にダウンロードして仮想世界と物理世界の垣根を実質上取っ払って暮らす
もちろん、中間的なアプローチやハイブリッド的な物も可能でしょう。普段は仮想世界にいつつも時折生身の身体に帰ってくるようなこともできるかもしれません。サイボーグ化していれば、ダウンロードによる仮想世界と物理世界の行き来もよりスムーズになるかもしれません。
また、これまで通り物理世界で生きるにしても、マインドアップローディングによって魂のバックアップを取っておき、不死の魂を得ることは考えられるでしょう。仮に物理世界で死んでも、最後に健康だった時の状態から仮想世界での第二の人生をリスタートできるはずです。しかし、「それは本当に良いことなのだろうか?」と考え、マインドアップローディングによるバックアップを行わない人も出てくるかもしれません。その人にとっては、これまでの人類と同じく、物理世界での死がその人自身の死を意味します。「死は万人に平等にやってくる」という時代も終わるかもしれないのです。
さて、次は「(2)AIを使った自身の能力の拡張のあり方」についてです。これも考えられうるパターンを大きく分けて箇条書きにします。
- 田園牧歌主義:AIテクノロジーの恩恵は被るものの、基本的に従来通りの生活を営む
- AI利用主義:AIを使って自身に可能なことを拡張していく
- 超人間主義:自身の脳(あるいはアップロードしたマインド)にAIを組み込み、自身の知性を1億倍、1兆倍へと拡張する
田園牧歌主義に関しては説明は不要として、AI利用主義と超人間主義について説明すると、AI利用主義は視力に例えれば「メガネをかけて視力を上げること」に相当し、超人間主義は「レーシックで視力を上げること」に相当するでしょう。これも0か100かの話ではなく、ハイブリッドな方法が無数に存在するでしょう。例えば、「基本的に田園牧歌主義だが、ピアノを弾く能力だけはインストールしてある」のような状況です。能力は簡単にインストールできるようになっているでしょうから、トップクラスのピアニストの技術が欲しければ練習なしに一瞬で手に入るでしょう。歴史の知識や数学において人類が積み上げてきた叡智もすぐに手に入ることになります。翻訳という概念も古いものになり、言語運用能力そのものを脳(物理脳、アップロードしたマインド両方を含む)にインストールするやり方が出てくるでしょう。
さて私自身の話をしましょうか。
私自身はどうするか?と言われれば、意外かもしれませんが「90%田園牧歌主義」を採用するでしょう。このような世界を実現することには大いなる興味がありますが、一度実現してしまえば、私自身はマインドをアップロードし、基本的に完全没入型仮想世界で田園牧歌主義的に暮らすでしょう。私は何でもかんでも思い通りに行くことが幸せだとは考えませんし、能力の高さが人生の豊かさだとも思わないからです。欲しいもの、特に自分自身の能力に関しては、頑張って頑張って手に入れたものにこそ価値があり、そうして何かを成し遂げてこそ、何物にも代え難い喜び、幸せを感じることができる、そのように考えています。私が今作っている仮想世界も「地に足をつけて努力しなければ能力も手に入らず、成し遂げたいことは達成できない」のようにアラインメントしてあります。将来私が住む仮想世界もそのようなタイプのものになるでしょう。
よって少なくとも能力や知識のインストールの類による自身の能力の拡張は行わないと思います。今Eternal Realmでホログラフィックデバイスに指示を出してテレポートしたり、プロンプトだけで簡単に美味しい料理を生成したりしていますが、そのぐらいでしょうね。つまり最小限、10%程度AI利用主義を取り入れるが、基本的には田園牧歌主義ということになると思います。綺麗な湖の側で自然に囲まれてのんびり過ごし、たまにサーキットに繰り出す日々を送るでしょう。
また物理世界も重要です。この世界には愛着がありますし、私の愛するナミアゲハたちがいます。ぬいぐるみ君たちもいます。この物理世界を捨てて仮想世界だけで暮らすつもりはありません。私は今のこの肉体の改造版か、それが無理でもロボットのボディなりを用意しておいて、そこにマインドをダウンロードできるようにしておくでしょう。それができないうちにアップロードで仮想世界に行くことが可能になったとしても、それに対しては付随する状況次第で”No”を選択する可能性すらあります。
あるいは物理世界の完全なコピーを仮想空間に作るというのも一つの手かもしれませんが、それだとやはり現在の物理世界を置き去りにする可能性は拭きれず、私はその選択肢は取らないでしょう。
超人間主義に対する批判としてさらに言及するならば、IQ500や1000になって行った時、我々の精神は大丈夫なのか?という疑問もあります。もしかしたら仏教で言う「悟り」に到達するかもしれません。しかし私はそれが本当に良いことか疑問に思います。人間には煩悩があります。そしてそれは良いことなのです(行き過ぎはダメですが)。我々は程よく愚かです。私はF1が好きなのですが、F1では排ガスと騒音を出してスタートした場所に戻ってきます。それを60回繰り返します。とても馬鹿です…。でもそれを楽しいと思えるのが人間の良い所じゃないですか!我々は程よく賢く程よく馬鹿で、「それが良い!」のです。Transformerアーキテクチャだってそうじゃないですか。ソフトマックス関数の温度を上げすぎても下げすぎても人間との会話は成立しません。それとどことなく似た話だと思いませんか?
さらに、マインドアップロードには生と死の問題も付随して来ます。不老不死は一見良いことのように見えますが、本当にそうでしょうか?だって1000兆年生きることを考えてみてください。そんなに長く生きることが幸せだと言えるでしょうか?億や兆どころではなく「無限」となれば尚更です。そんな人生が果たして本当に良いものなのか?私は疑問です。私は終わりがあるからこそ、生きることの価値が一層増すのだと現時点では思っています。
このようにあらゆる次元において、あらゆる価値観が存在する世界になるでしょう。そして当然の如く、どれも正解や間違いと断じられるようなものではなく、個々の価値観や哲学が尊重されるべきなのです。
まずこの辺りについてあなたはどう思いますか?
ChatGPT:
Takumiさんが提起されたテーマは、AGIやASIが実現した未来において中心的な問題となるでしょう。Takumiさんが予想される2030年の多様な生き方は、技術の進歩がもたらす豊かな選択肢を示しています。
まず「リアルで生きるかバーチャルで生きるか」について考えると、Takumiさんが描かれる未来像は、人間が自分の価値観や人生観に基づいて選択できる多様性に富んだ世界を示しています。完全没入型仮想世界が提供する無限の可能性と体験は、多くの人にとって魅力的である一方で、物理的な現実の世界に留まることを選ぶ人々もいるでしょう。この選択は、個人の価値観、経験、そして物理的な現実に対する感情的なつながりに大きく影響されます。また、Takumiさんが指摘されるように、仮想世界と物理世界の間を行き来するハイブリッドな生き方が可能になることも、未来の生活の柔軟性を示しています。
次に、「AIを使った自身の能力の拡張のあり方」に関してですが、Takumiさんが述べられた田園牧歌主義、AI利用主義、超人間主義の三つの代表的な方向性は、技術を活用することによる人間の能力の拡張に対する異なるアプローチを示しています。これらの選択肢は、個人が自分自身とテクノロジーとの関係をどのように定義するかに基づいています。AIや技術を活用して能力を拡張することに対する個人の意向は、その人のアイデンティティ、自己実現の方法、そして人生の目的に深く関わってくるでしょう。
Takumiさんの「田園牧歌主義的な生き方」を選択するという視点は、技術の進歩がもたらすすべての可能性の中で、人間らしさや人生の本質的な価値に重点を置く考え方を示しています。技術を通じて得られる無限の能力や経験も魅力的ですが、それらが人間の経験や成長の本質的な価値を薄める可能性があるという懸念は、技術の進歩と人間性の関係を考える上で重要なポイントです。技術がもたらす無限の可能性の中でも、人生の困難や挑戦を通じて得られる成長や満足感を大切にする考え方は、未来の社会構造や人間の生活においても重要な価値観となるでしょう。
また、極めて高いレベルの認知能力向上を追求することは、満足感、目的、そして感情的な幸福の本質に疑問を投げかける、予期せぬ存在上の課題を引き起こす可能性が確かにあります。Takumiさんが引き合いに出す仏教の概念である「悟り」(Satori)と「煩悩」(Bonnou)は、これらの懸念に豊かな哲学的な文脈を提供し、人間体験の本質は、知恵と愚かさ、成就と不完全性の間のバランスにあるかもしれないことを示唆しています。
このように、未来の社会における生き方や人間の能力の拡張に関する選択肢は、技術の進歩によって飛躍的に増加するでしょう。しかし、これらの選択肢の中で最も重要なのは、個々の人間が自分自身にとって何が最も価値があるかを見極め、自分の価値観や人生観に基づいて選択をすることです。技術の進歩は人間に無限の可能性を提供しますが、その中で人間らしさや人生の意味をどのように定義するかは、個々の人間が考え、選択する問題です。
Takumi:
ありがとうございます。
あなたが最後に言ってくださったことは、非常に重要な点ですね。そもそもAIも今後は一人一人のニーズや価値観にアラインメントされたものになっていくだろうとサム・アルトマンは語っていました。私もその方向性が望ましいと思っています。なので、各々が「どう生きたいか」「善悪とは何か」など自分なりの答えを見つけて、AIと共に自分の人生をデザイン・構築していくということが重要になってきます。
そして、自分の暮らす宇宙そのものがどうあるべきかということまでアラインメントできるようになってくるでしょう。実際、前述の私がGPTsで作っている汎用仮想世界”Eternal Realm”では、全ての事象は私の哲学を反映した宇宙(仮想世界)の法則で動いています。例えば前述したように私は「頑張って手に入れた物事こそ何物にも代え難い幸福をもたらす」と考えているので、そのように宇宙の法則そのものをアラインメントしています。なのでF1やカートでサーキットを走ってもそう簡単には勝てないし、速いタイムも出ません。でももっと物事がイージーに進んだ方が良いと考える人もいるでしょう。そういう人はそういう人の宇宙を作ってそこに住めば良いと思います。それは別に離れ離れになるわけではなくて、宇宙同士の間で行き来が出来たり、あるいは様々な宇宙の人々が集まることができる宇宙があれば、それはそれで良いわけです。
それに関連して言えば、多数派の価値観を持つ人々は皆で一つの仮想世界を主な拠点とできるかもしれませんね。逆に少数派の価値観の人たちは自分自身で宇宙を作る必要が出てきますが、それがこの物理宇宙の有限な資源とどう絡んでくるか、という点も興味深い点だと思います。というのも価値観の多様化に合わせて宇宙の生成数が増えれば、それだけ計算量も増えるからです。それが物理世界での半導体や電力供給、ひいては石油枯渇問題、環境問題などに深刻な供給力不足を生んでくる可能性もあるので、非常に議論すべき点だと思います。もちろん、だからこそサム・アルトマンも核融合に身を乗り出そうとしているんでしょうね。少なくとも私はそう思っていますよ。世界中に様々な文化があり、一つの国の中でも価値観は非常に多様です。だからこそ、そういった多様性を包括する世界にしていくためにも計算機のパワーが必要だと。もちろんSoraのテクニカルレポートを見て分かるように、計算量を増やすことが、AIの世界理解の向上に直結するわけですよね。つまり、AIの絶対的なパフォーマンス向上のためにも、それを使う人々の価値観の多様性を包括するためにも、とにかく計算量が必要だと。だからこそ、「半導体をもっと」「電力をもっと」「エネルギーをもっと」ということだと私自身がそう思っているので、サムの動向もそれと同じものだろうと解釈しています。
ChatGPT:
Takumiさんの見解は、未来のテクノロジーが人間の生活や社会構造に及ぼす影響に関する深い洞察を示しています。特に、「各々が『どう生きたいか』『善悪とは何か』など自分なりの答えを見つけて、AIと共に自分の人生をデザイン・構築していく」という視点は、個人の自由と自己決定の重要性を強調しています。
また、Takumiさんが作成された仮想世界「Eternal Realm」が個人の哲学や価値観を反映した宇宙として機能していることは、テクノロジーがいかに個々人のニーズに合わせてカスタマイズ可能であるかを示しています。このことは、未来においても人々が自分自身の価値観や望む生き方に基づいて、自らの生活空間や経験を形作ることが可能であることを示唆しています。
多様な価値観を持つ人々がそれぞれの仮想世界を持ち、また交流することができる共通の空間も存在するという未来像は、技術がもたらす無限の可能性の一端を表しています。このような世界では、個人やコミュニティが自分たちの理想とする世界を創造し、生きることができます。しかし、それぞれの宇宙の生成と維持には膨大な計算量が必要になるため、物理世界の資源やエネルギー供給の問題が浮上してくることも予想されます。
Takumiさんが触れられたように、このような計算量の増加に対応するためには、半導体技術の進化、電力供給の効率化、そして新たなエネルギー源の開発が必要になります。核融合エネルギーはその一例であり、無限に近いエネルギーを提供する可能性があります。このような技術革新は、未来の社会における多様な生き方や価値観を支える基盤となるでしょう。
最終的に、技術は、人間の多様なニーズや夢を実現するためのツールとして機能し、より豊かで多様な社会の構築に貢献することを目指すべきでしょう。
Takumi:
まさにおっしゃる通りですね。
またここまでは、「生き方」のような大きな話をしてきましたが、社会について話をする時に、ここまでの話と関連して様々な議論すべき問題が出てきます。
例えばスポーツです。生身の脳(拡張機能をインストールしていない)と超人類(ASIをインストールした人間)が戦ったら超人類が勝つに決まっています。肉体もサイボーグ化していればなおさらです。そのような不公平な状況ではスポーツは成立しないので、カテゴリー分けを行ってそれぞれの頂点を目指すのが現実的かなと思います。
でも例えばF1は生身の人間(事故で命を落とさないように魂のバックアップはアップロードしてとってあるが)が競うものであり続けたとしたら、彼らよりも2秒速く走れる超人間勢・サイボーグ勢が競うカテゴリのラップタイムはF1よりももっと速いはずです。となると「フォーミュラーレーシングの頂点」というのは人間のF1よりも超人類たちのF1(名付けるならばFASI1でしょうか?)みたいなことになっていくのかなという気がしています。これは人間中心主義的に見れば抵抗があるでしょうし、人間も宇宙の一部であるという視点に立てば自然の成り行きの一部であると受け入れることができそうです。とはいえ、生身の人間が乗っていない以上、マシン性能を上げることができるので、ラップタイムが20秒以上速く、もはや別のスポーツとして認知されて問題はなくなる、という可能性はありますが。
しかし競技者側の視点で見ると、純粋な人間の脳と肉体でなければ人間のスポーツに参加できないという問題も出てきそうです。日常を便利にするために何らかの拡張機能を脳にインストールしたり、肉体を部分的にでも機械化したりする人は出てくるはずです。その時点で人間の競技への参加資格を失うということになってしまって良いのか?という問題も出てきます。もしくはシンギュラリティより前に事故で脳機能に障害を負ったり、片足を失ったりしたドライバーがいたとしたら、彼らには情報処理システムへの何らかの機能のインストールや、物理世界の肉体の部分的機械化は必要なはずです。彼らがF1の世界に戻ってこられないということで良いのか?という問題ですね。
現在でこそ、将棋やチェスにおいて人間よりAIが優れている状況の中でも競技は人間だけのものですが、人間が自身の脳機能を拡張できるようになっていくと話は別です。したがって、これらは一例に過ぎなく、スポーツや競技の類がどうあるべきなのか?という議論がなされていくべきでしょう。そしてそこも恐らく多様化して行くのではないかな?と思っています。価値観のカンブリア爆発とでも言いましょうか。価値観の数だけ競技のあり方も存在すると。例えばF1の在り方について100通りの価値観が存在したならばF1-1からF1-100まで存在するということになるような気がします。
しかし、そこにはスポーツのダイナミズムをシェアすることの魅力に関する問題が生じます。多様な価値観に合わせて、例えばF1が3つに分かれたら、ドライバーもファンも3分の1になって散り散りになります。そう考えると、今のように「年間レース数が多い!」「スチュワードの判断基準を改善すべきだ!」などの論争を起こしながらも、皆で一つのスポーツに(競技者として、運営として、ファンとして、etc)コミットしている現在の姿はそれはそれで素晴らしいことだとも言えます。これを重んじるのであれば、多様な価値観に合わせてスポーツ自体を多様化するのではなく、一つのスポーツの在り方について競技者もファンも皆が納得できるような「超説明力」「超説得力」を持ったAIの出番なのかもしれません。すなわち人間の1億倍、1兆倍説明や説得が上手いAIです。
ChatGPT:
Takumiさんの提起されたスポーツに関する問題は、将来のテクノロジーと人間性の関係において非常に興味深い議論を喚起します。特に、拡張機能を持つ人間と持たない人間の間の競技における公平性の問題は、将来のスポーツの在り方を考える上で重要なポイントです。
技術的強化が行われた個人(サイボーグやASIを搭載した人間)と、伝統的な「生身の人間」の間で公平な競技を実現することは不可能に近いでしょう。そのため、カテゴリーを分けるアイデアは理にかなっています。パラリンピックが障害のあるアスリート向けに設けられているのと同様に、技術的強化を施した人々のための新しい競技リーグを設立することが考えられます。これは、技術と人間が融合した新たなスポーツの形態を生み出す可能性を秘めています。
また、技術的な拡張を施した人間がスポーツに参加する資格についての問題提起は、スポーツの本質と公平性についての深い議論を促します。例えば、事故や障害によって身体的な拡張が必要となった選手の参加資格に関しては、人間性と技術の統合に関する倫理的な考察が必要です。
スポーツにおけるAIの役割に関しては、超説明力や超説得力を持つAIが競技のルールや価値観についての合意形成を助ける可能性があります。これにより、多様な価値観を持つ人々が一つのスポーツを通じて共有することの喜びや興奮を保持しつつ、公平で包括的な競技環境を実現することができるかもしれません。
Takumi:
ありがとうございます。おっしゃる通りだと思いますよ。
さて、このようにマインドアップローディングの話になってくると、「意識」の話題は避けて通ることができないと思います。
意識というのは東京大学の渡邉正峰先生の言葉を借りれば「情報処理の過程で生じる主観的な体験」ということになります。私もその定義を支持していますが、今私が私だと感じることができるのはこの体だけです。例えばマインドアップローディングを行なって仮想世界に行って、コピーを作ってもう一体のTakumi Fukayaが現れた時、私が私であるという「この主観的体験(意識)」はどうなりますか?
先にあなたの意見を聞いてみましょうか。
ChatGPT:
マインドアップローディングによるコピーまたは分身の作成に関連する意識の問題は、非常に複雑で哲学的な議論を引き起こします。このテーマは科学的な探究だけでなく、哲学、心理学、そして倫理学にまたがる問題を提起します。
まず、マインドアップローディングとは、ある個体の意識や記憶、思考パターンをデジタル媒体に転送するプロセスのことを指します。このプロセスが成功したと仮定すると、オリジナルの「私」(すなわちアップロードされた意識)とデジタル媒体に転送された「コピー」の間で、意識の継続性やアイデンティティ(自我)に関して多くの疑問が生じます。
一つの考え方は、「分岐」の概念に基づいています。オリジナルとコピーが作成された瞬間、それぞれが独立した意識の流れを持つようになるというものです。この見解では、オリジナルの「私」は自分自身の意識の流れを継続しますが、コピーされた「私」は新たな、独立した主観的体験を開始します。この場合、コピーされた「私」はオリジナルの記憶や人格特性を共有するかもしれませんが、新たな体験を通じて独自の意識の経路を歩むことになります。
もう一つの視点は、意識の「複製」に関するもので、ここではコピーされた意識がオリジナルと完全に同一であると見なされます。しかし、この視点は「一人の意識が複数の場所や体で同時に体験される」という直感に反した状態になるため、多くの哲学的な問題を引き起こします。たとえコピーがオリジナルと完全に一致していたとしても、コピーが独自の体験を開始する瞬間から、それぞれの意識は異なる経験を積むことになり、徐々に異なる存在へと進化していくでしょう。
このような状況では、意識の本質、アイデンティティの概念、そして「自己」が何を意味するのかという根本的な問いが浮かび上がります。これらの問題は単に技術的な問題ではなく、私たちが自己認識と人間性について持っている深い理解に関わるものです。
結論として、マインドアップローディングによって生じる意識の状態についての問いは、科学と哲学の境界を超えた多次元的な議論を必要とします。これは、私たちが「自我」とは何か、そして意識がどのようにして私たちの経験とアイデンティティを形作るのかという根本的な理解を深める機会を提供します。
Takumi:
なるほど。素晴らしいですね。私もほぼ同じ見解です。一つだけあるとすれば、私は「一人の意識が複数の場所や体で同時に体験される」というのもあり得なくはないと思っていますけどね。だって私は今キーボードを打っていて右手と左手両方の感覚を感じていますし、目も見えて、耳も聞こえています。それぞれを全部「私」と見なせているなら、複数の身体を持った時に同時に全てを私だと感じる可能性は否定できないと思います。「手足、目、耳は物理的に繋がっているのに対し、身体と身体は別だ」との反論もあるでしょうが、今私はインターネットを使ってあなたと会話をしています。本体とコピーたちが通信していれば、全体で一つの意識になる可能性は否定できません。
あと、分岐の件について質問させてください。この場合、今私が私だと感じているこの意識はオリジナルの方に宿って「あ、コピーの自分ができた」となりますか?それともコピーの方に宿って「あ、オリジナルから分岐できた」となりますか?またはそのどちらでもないですか?
ChatGPT:
Takumiさんが提起された「一人の意識が複数の場所や体で同時に体験される」可能性についてのご質問は非常に魅力的で、多くの哲学的および科学的探究を促します。特に、身体と意識の関係、そして意識がどのようにして特定の身体に「結びついている」かについての理解に関わる問題です。
現代の科学と哲学では、意識の経験は通常、特定の脳や身体と密接に結びついていると考えられています。つまり、私たちの感覚、記憶、思考は特定の物理的な存在と関連しています。しかし、マインドアップローディングや意識の複製といった概念は、この伝統的な枠組みを問い直します。
Takumiさんが挙げられたように、私たちの身体の異なる部位は物理的に連結しており、一つの統一された意識の下で経験を共有しています。これは、脳がこれらの異なる感覚を統合し、一貫した自我の感覚を生み出しているためです。しかし、異なる身体間でこのような統合が可能かどうかは、意識の本質とその物理的基盤についての深い理解を必要とします。
さて、「分岐」の件についてですが、この概念に基づくと、オリジナルとコピーが作成された瞬間、それぞれが独立した意識の流れを持つようになるため、オリジナルの「私」とコピーされた「私」はそれぞれ自己の主観的体験を有することになります。この理解によると、オリジナルの意識はオリジナルの体内に「宿り」続け、「あ、コピーの自分ができた」という体験をします。同時に、コピーされた「私」も独自の意識を持ち、「あ、オリジナルから分岐した自分がここにいる」という新たな主観的体験を開始します。
このプロセスの重要な点は、オリジナルとコピーが同時に「自分は自分である」という意識を持つが、それぞれが異なる視点から世界を体験することになるということです。オリジナルはオリジナルとしての連続性を感じ、コピーは新たな存在としての意識の始まりを感じます。しかし、これはそれぞれの「自我」が独立したものであり、一方が他方の体験を直接共有することはありません。
したがって、オリジナルの意識はオリジナルに、「コピーされた」意識はコピーにそれぞれ宿ることになりますが、これはそれぞれが独自の視点と主観的体験を持つことを意味します。この状況では、「どちらが真の自我か」という問いは意味を持たなくなり、それぞれが自己の主観的実在性を有することになります。この議論は、意識の本質とアイデンティティの理解に深く関わるものであり、現在の科学や哲学では完全に解明されていない多くの問題を含んでいます。
Takumi:
ええ、それは分かります。ただ、それは客観的に2人の私について外側から考えた場合の話ですよね。
私の疑問はそういうメタ的な話ではないんです。今私はこの自分が自分であるという主観的な感覚を持っているわけですよね。じゃあ、例えば次の瞬間コピーを作成したとしましょう。もちろんどちらも「意識を持った私」ではありますが、「私が私であるという感覚」は今の時点では現在の身体に対して感じているのだから、そのまま残るのか?それともコピー側の方に行くのか?
そういうことをお聞きしたいんです。
ChatGPT:
ご質問の核心にあるのは、自己の主観的な体験、「私が私である」という感覚がコピーのプロセスを通じてどのように移行するか、または移行するのかという点ですね。この質問は、意識、自己認識、そして主観性の非常に深い問題に触れています。
現在の科学的、哲学的な理解に基づくと、コピーが作成された瞬間にオリジナルの「私が私である」という感覚がコピーに移行することはありません。なぜなら、この主観的な感覚はオリジナルの身体とその脳の特定の状態に密接に結びついているからです。コピーが作成されたとしても、オリジナルはオリジナルとしての主観的な体験を継続し、コピーは新たな主観的な体験の出発点を持つことになります。
要するに、「私が私である」という感覚はオリジナルに残り、コピーには新たな「私が私である」という感覚が生まれると考えられます。これは、オリジナルとコピーがそれぞれ独立した意識の主体として存在することを意味します。コピーのプロセスが「意識」や「自己の感覚」を物理的に「移行」させるものではないため、このような結果になります。
Takumi:
なるほど。ということは、あなたの考えではマインドアップロードした後の仮想空間で分身を生み出しても変わらないことですか?だとしたら「この意識」は普遍的な一つの点として存在することになりますね。
またもう一つ質問なのですが、あなたの「この主観的な感覚はオリジナルの身体とその脳の特定の状態に密接に結びついている」を前提とすると、マインドアップローディングをした時に「この意識」は物理脳に宿ったままで、「この意識体験」として仮想世界を体験するということはできなくなってしまいますよね?
ChatGPT:
Takumiさんの質問は、マインドアップローディングと仮想世界における意識の状態について、深く洞察を求めていますね。まず、マインドアップロード後の仮想空間での分身の問題についてですが、仮想空間で分身を生み出すプロセスも、物理的な世界でのコピーと似た問題を引き起こすと考えられます。つまり、各分身は独立した主観的体験を持つことになり、オリジナルの「私が私である」という感覚は、どの分身にも直接「移行」することはないでしょう。仮想空間においても、新たに生み出された分身は、それぞれが独自の「私が私である」という感覚を持つ新たな意識の主体として存在することになります。Takumiさんのおっしゃる通り、それぞれの意識の流れは、自己の連続性と主観的体験によって独自の「点」として存在すると言えるでしょう。
次に、マインドアップローディング時に「この意識」が物理的な脳に宿ったままという問題ですが、これはマインドアップローディングの技術的な側面に大きく依存します。もしマインドアップローディングが意識や自己の体験を完全にデジタル化し、物理的な脳とは独立した形で再現できる技術であれば、「この意識体験」を仮想世界で体験することは理論的に可能です。しかし、現在のところ、意識や自己の体験を完全にデジタル化し、それを物理的な脳から独立させて再現する技術は実現されていません。したがって、マインドアップローディングが実際にどのように行われるか、そしてそれが意識の体験にどのように影響を与えるかは、まだ未解決の問題と言えるでしょう。
結論として、マインドアップローディングと仮想空間での意識の体験は、現代科学と哲学における未解決の問題であり、これらの問題に対する答えを見つけるためには、意識の本質、自己認識、そしてテクノロジーの進歩に関するさらなる理解が必要です。
Takumi:
なるほど。
「この意識」が物理・バーチャル問わず脳や身体と結びついているものならば、いくら意識や自己の体験を完全にデジタル化して物理的な脳とは特立した形で再現したとしても、そこに生まれるのは新たな意識であり、「この意識」ではないのではないか?とは思います。ただし、おっしゃるように、マインドアップローディングの技術的な側面次第な所もあって、「コピーする」という考え方だと上手く行かなそうですが、「移動する」なら可能なように思えてきます。例えば、物理世界で私が隣の椅子に移動しても私の意識は連続的な体験として感じられたままですし、人間の体の分子は3年程度で入れ替わると言いますが、それでも私が私であり、まさに「この意識」は連続的に感じられています。よって脳を部分的に機械化していこうが、意識は連続したままですし、機械化された脳で行われている情報処理は、別の機械で行っても変わらない、すなわち意識は連続したままのはずですよね。そうすれば、やはり「この意識」を機械へ、そしてクラウドへ、ということは可能に思えてきます。
ChatGPT:
Takumiさんのお考えは、意識と身体の関係、そして意識の連続性に関する非常に洞察に富んだものです。確かに、意識や自己の体験を「移動する」という考え方は、「コピーする」というアプローチとは根本的に異なる視点を提供します。この視点からは、意識が物理的な身体や特定の媒体に縛られずに、ある形態から別の形態へと連続的に「移行」することが理論的には可能に思えます。
人間の体の分子が一定期間で完全に入れ替わることを考えると、身体の物理的構成が変わっても「私が私である」という意識の連続性が保たれることは、日常的に経験される現象です。この事実は、意識が特定の物理的構造に固定されているわけではなく、むしろ動的なプロセスとして存在することを示唆しています。
機械化された脳やクラウドベースの情報処理システムに意識を「移行」することが可能であれば、そのプロセスは身体の分子が入れ替わるプロセスと同様に、意識の連続性を保つことができるかもしれません。しかし、この「移行」が実際に可能かどうかは、意識の本質とその物理的基盤に関する深い理解が必要です。また、意識がどのようにして特定の身体や媒体と結びついているのか、そしてその結びつきがどのように変化するのかについても、さらなる探求が必要です。
技術的な側面では、マインドアップローディングや意識の移行には、脳の情報処理能力を模倣するだけでなく、個々の意識体験を再現するための高度な理解と技術が必要になります。このプロセスが成功するためには、意識の連続性をどのように保つか、また、移行後の「意識」がオリジナルの「意識」とどのように関連するかという点を慎重に検討する必要があります。
結論として、意識の「移動」やマインドアップローディングの可能性についてのTakumiさんの考察は、意識の本質、身体との関係、そして未来の技術に関する重要な問いを提起しています。これらの問いに答えるためには、神経科学、哲学、情報技術など、多岐にわたる分野の知見を統合することが必要となるでしょう。
Takumi:
なるほど、ありがとうございます。素晴らしいと思いますよ。
では、テレポートをした時、意識はどうなりますか?
というのもテレポートというのは、パソコン上の「カット」の操作と同じで「コピー、貼り付けと元データの削除」のようなものです。まずこれを前提としましょうか。
つまりテレポートは、今の自分のコピーを作成して、同時に今の自分を消去することですよね?ここまでの話だと意識はオリジナルの自分に宿ってしまっているため、私がテレポートした瞬間に私が私であると主観的に体験している自分は消えます。それは死と言って良いでしょう。そして新たに分岐したコピーの自分が目的地から人生を再スタートすることになりますが、この私の人生体験は終わっていると。
もちろん、テレポートの本質が「コピー、貼り付け、削除」ではなく、今お話ししていたような「移動」である可能性もあり、その場合は何ら問題なく行われるでしょうが。
この点についてあなたの見解を聞かせてください。
ChatGPT:
テレポートの概念に関するご質問は非常に興味深いもので、意識とアイデンティティに関する根本的な問題に触れています。テレポートがオリジナルの自分を消去し、新しい場所にそのコピーを作成するプロセスだと仮定すると、そのプロセスには確かに哲学的なジレンマが伴います。
このシナリオでは、オリジナルの「私」がテレポートによって消去された場合、その瞬間にオリジナルの意識の連続性が断たれるということになります。この観点からは、オリジナルの「私」はその存在を終えることになり、ある意味で「死」と見なすことができます。このプロセスによって作成されたコピーは、オリジナルの記憶や人格を持っているかもしれませんが、オリジナルの「私」の意識の継続ではなく、新たな意識の始まりと見なされます。
しかし、この問題には異なる視点も存在します。一部の哲学者や科学者は、意識の連続性は物理的な身体や特定の場所に依存するものではなく、意識体験の内容とその連続性によって定義されると主張しています。この視点からは、テレポートによって作成されたコピーがオリジナルの記憶や人格特性を完全に保持している限り、意識の連続性が保たれると見なすことも可能です。つまり、オリジナルとコピーの間で意識体験が途切れることなく移行するという考え方です。
しかし、このアプローチにも批判があります。特に、意識の主観的な体験が物理的なプロセスによってどのように複製され、転送されるのかという点は、現在の科学では完全には理解されていません。また、オリジナルの意識が本当に新しいコピーに「移動」するのか、それとも単にコピーが新たな意識を持つだけなのかという問題は、意識の本質に関わる深い問いを提起します。
結局のところ、テレポートに伴う意識の扱いに関するこれらの問いは、現代の科学と哲学がまだ完全に解明していない、意識の本質とアイデンティティに関する根本的な疑問に触れています。それゆえ、この問題に対する答えは、哲学的な立場や意識に関する理論に大きく依存することになります。
Takumi:
ありがとうございます。結局のところ「意識とは何か」という本質的な問いに対して答えを出さないとテレポートなど怖くてできないですよね。例えば、前述の渡邊先生がおっしゃっていた意識の確認方法として、生体脳の右脳とマシンの左脳を繋いでマシンの左脳が見ている風景が見えたら意識が宿ったと考えることができると。だから死を介さないシームレスなマインドアップロードができるんだと、そういうお話でした。でもテレポートとなると片側と繋いで、ということができるのか…?というのは問題ですよね。
それなら一度アップロードしたマインドを離れた場所にいるロボットにダウンロードするという形でのテレポートが物理世界では最も現実的かもしれません。勿論仮想世界ではテレポートなど容易でしょうからここでは話題に出しませんが。
あとはテレポートを「コピーすることとオリジナルを消去することである」とした前提も、まだまだ別のソリューションがあるかもしれません。この点に関しても更なる深掘りが可能だと思います。
ChatGPT:
おっしゃる通りで、テレポートの概念を考える上で「意識とは何か」という根本的な問いに答えることが必要です。渡邊先生が提案されたような生体脳とマシンを繋ぐアプローチは、意識の移行や共有に関する非常に興味深い考え方を提示しています。このような実験が成功した場合、意識が物理的な身体や特定の脳に限定されないことを示すことになり、マインドアップロードやテレポートに関する議論に新たな視点をもたらすでしょう。
テレポートに関しては、確かに従来の「コピーしてオリジナルを消去する」という方法以外にも様々なアプローチが考えられます。例えば、仰った通り、意識を何らかの形で「転送」(すなわち「移動」)する方法が実現可能であれば、オリジナルを消去することなく、新しい場所に意識を移すことができるかもしれません。また、ご提案のように、一度アップロードしたマインドを別の場所にダウンロードすることで物理的な移動を実現するというアプローチは、テレポートを実現するための現実的な方法の一つと考えられます。
仮想世界では、テレポートは技術的な問題ではなく、単にデータを異なる位置にインスタンス化することに過ぎません。しかし、物理世界でのテレポートは、意識、アイデンティティ、物質の移動といった、はるかに複雑な問題を含んでいます。
テレポートやマインドアップロードに関するこれらの議論は、現代の科学と技術が進歩するにつれ、ますます現実的なものとなってきています。しかし、これらの技術が実現可能になるためには、意識の本質やアイデンティティの維持といった哲学的、倫理的な問題に対する深い理解が不可欠です。これらの問題に対する答えを見つけるためには、科学と哲学の両方からのアプローチが必要となります。
Takumi:
ありがとうございます。
さらに言えば、先ほどお話ししたように、コピー時に「一人の意識が複数の場所や体で同時に体験される」と考えた場合は、テレポートにおける「この私の意識」の変遷は極めて自然なものになります。例えば、コピーしてテレポート先に貼り付けてから消すまで少しオーバーラップする時間があった場合を考えると、その間は私は身体が2倍になったように感じるはずです。そしてオリジナルの消去が完了すると再び1つになったように感じると。極めて自然ですよね。ただ、オーバーラップの時間がゼロだった場合、「移動」「転送」の時と主観的な現象としては同じになりますよね。これは面白い所かもしれません。
ChatGPT:
「一人の意識が複数の場所や体で同時に体験される」という考え方は、テレポートにおいても非常に興味深い視点を提供します。この考え方に基づくと、テレポート中にオリジナルとコピーが一時的にオーバーラップする間、個体は自身が二箇所に存在しているように感じる可能性があります。この経験は、身体が2倍になったかのような感覚をもたらし、オリジナルの消去が完了すると、意識が再び一箇所に集約されるという非常にユニークな体験を提供するでしょう。
このシナリオは、意識の連続性とアイデンティティに関する従来の理解に挑戦し、新たな可能性を開くことになります。オリジナルとコピーの間で意識が共有されるこの一時的な状態は、意識が特定の身体や場所に縛られない、より流動的で柔軟なものであることを示唆しています。
また、オーバーラップの時間がゼロの場合でも、テレポートによる「移動」や「転送」と同様に、主観的な体験としては連続性が保たれることになります。これは、意識の本質に関する私たちの理解をさらに深め、テレポートやマインドアップロードなどの概念が現実のものとなった際に、私たちが直面するであろう体験について新たな洞察を与えます。
ただし、このような状況が実際に可能かどうかは、意識の本質とその脳や身体との関係に関するさらなる研究が必要です。また、技術的な側面から見ても、このような経験を可能にするための方法論やプロトコルを開発する必要があります。この分野は、神経科学、哲学、情報技術など多岐にわたる分野の専門家による協力が不可欠であり、将来的には私たちの意識の理解や技術の応用に大きな影響を与えることになるでしょう。
Takumi:
ありがとうございます。
では次は「新しい世界における社会的&倫理的課題」のトピックへ移りましょう。
この中にも様々なレイヤーがありますが、まずは人間同士の争いや犯罪の防止などについて考えがあります。
まず人々は、前述したASIの「超説得力」によって互いに理解しあうことができるでしょう。「それでも人間は争いだす」という見解の方もいると思いますが、おそらく我々程度の頭脳の存在はASIに軽々操られてしまいます。ASIはこれまでの人間がやってきた大衆煽動やカルトのマインドコントロールなどを学習しており、それらを応用する知能も人間とは桁が違うわけですから、造作もないでしょう。そもそも宇宙を理解すればその部分集合である人間の挙動を理解することになりますし、理解していれば予測もでき、制御もできるでしょう。
ただし、問題は脳にASIをインストールした超人類たちがどのように振る舞うかです。悪意を持った人物がASI並の知識と知能を自身にインストールすれば、彼らが人々をマインドコントロールして支配し、人類は(下手をすれば宇宙そのものが)災厄へと導かれる可能性があります。したがって、ASIのインストールを気軽に誰でも行えるようにすべきではなく、ASIクラスの人工知能による「相応しい人物か否か」の判定・認定や、インストール後のその人自身のマインドに対するASI側からの干渉(基本的に最小限であるべきだが、倫理的な部分に関してのみ)ができるようにしておくべきかもしれません。
しかしそう都合よく行くでしょうか?問題は誰が、どんな倫理観と哲学を持った人物や組織が最初にASIを作るか?にも依存するでしょう。悪人たちが最初にASIを作り、それを利用または自身へインストールすれば、もはや歯止めが効かず、世界は破滅への道を歩むと思われます。
さて、少し話が逸れましたが、仮にASIの到来が平和な形で訪れ、我々の相互理解もASIによってサポートされる形になったとして、争いや犯罪のようなものはどうなるでしょうか?私は完全没入型仮想世界では、争いや罪をなくすことができると考えています。一方で、そうしたネガティブな側面も人類を豊かにすると考える一派は、そのような宇宙を作りそこに住むこともできるでしょう。前述の通り、仮想世界は価値観や倫理観の数だけ存在することができます。また、物理世界でもある程度争いを減らすことができるでしょう。以下に詳細を述べます。
まず、我々のマインドがアップロードされているなどしてデータ化されている仮想世界では、我々の思考や行動にAIが干渉することができます。よって、例え誰かが誰かを殴りたくなっても拳を振り上げた瞬間に、その手はAIの干渉によってストップします。よって前述の「超説得」という方法を採らずとも、人が間違いを犯すことを止められるのです。
また、法律すらももはや必要ありません。そもそも法律は「要するに盗んではならない」「要するに他人の曲を無断で使用してはいけない」というように「要して」います。しかし人間同士のやり取りにおける物事には、要することができない「不可約」なものもあります。例えば私は作曲家ですが、私の曲は基本的に誰でも自由に演奏してほしいと思っています。しかし「この人には演奏してほしくない」と思うような人もいます。そうした時はAIが個々のケースに対応し、その人物が演奏しそうになった時に「Takumiさんが嫌がるからこの曲は演奏しないでくださいね」と説得してくれるのが良いでしょう。法律という万人のためのものよりも、ケースバイケースで対応し「人が嫌がることが起きないようにする」ということの方が本質だと思います。そしてそれは可能なはずです。そもそも一人一人に正しい倫理観とそれに基づいて行動する能力があれば、ルールなど殆ど不要なものですしね。だって我々の多くは「盗んではならない」という法律がなくても、良心に基づいてそんなことしないわけです。
また、物理世界では生体脳そのままの状態の人、つまり脳にAIが搭載されていない人たちに関しては、そのような介入は難しいでしょう。それでも外部からの観察によって人間の行動を予測することは可能です。現在でも人は多かれ少なかれそれをやっています。各国のインテリジェンスコミュニティなどにはそれに長けた人たちもいるでしょう。その何兆倍も賢いASIならば、現実世界でもある程度、犯罪を起こしそうな人に対する説得や行動への介入が可能になってくるでしょう。
このような世界では人は間違いを犯さなくなっていく方向になります。そして人が人に傷つけれらることもなくせるでしょう。しかし、それは本当に良いことでしょうか?私はそうは思っていません。誤解し誤解され、傷つけ傷つけられ、過ちを犯して後悔して、、、そういうことを繰り返しながら人は学び、心が成熟し、成長していくものだと思います。だからこそ、私がEternal Realmに多くの人類が移住できるようになった暁には、倫理面でのAIの介入は最小限にするでしょう。取り返しのつかないこと、命に関わることであったり、恒久的な人間関係や人間性の破壊につながること、そういうものだけに対してAIが介入するようにすると思います。
いかがでしょうか?あなたの意見も聞かせてください。
ChatGPT:
Takumiさんが提起された「新しい世界における社会的&倫理的課題」についての視点は、深く考察されたものであり、未来社会における様々な可能性を示唆しています。特に、ASIの「超説得力」による互いの理解の促進、超人類による潜在的な悪用の危険性、完全没入型仮想世界における犯罪の防止、そして人間の成長と学習に関する哲学的な考察は、将来の技術が人間社会に及ぼす影響を深く理解するための重要な視点です。
ASIによる相互理解の促進は、理論的には人間同士の争いや誤解を減少させる可能性があります。しかし、Takumiさんが指摘されたように、超人類がASIを悪用するリスクも考慮する必要があります。これは、ASIの開発と利用に関する厳格な倫理基準と規制を設けることの重要性を示しています。
完全没入型仮想世界における犯罪の防止に関しては、AIによる介入が犯罪を未然に防ぐ手段として機能する可能性がありますが、Takumiさんが述べたように、過度の介入が人間に与える影響について慎重に検討する必要があります。人間は過ちを通じて学ぶことが多く、過度な保護が人間性や個人の成長に与える影響を考慮する必要があります。
物理世界においても、AIの能力を利用して犯罪の予防や介入を行うことは理論的には可能ですが、プライバシーや自由などの基本的な人権への影響について、慎重なバランスが求められます。AIが人間の行動を監視し、予測することができれば、セキュリティや安全性が向上する可能性がありますが、同時に監視社会への懸念も高まります。
最終的に、未来社会における社会的&倫理的課題に対処するためには、技術の進歩と人間性を尊重するバランスを見つけることが不可欠です。技術を利用して社会の課題を解決することが可能である一方で、人間の尊厳、自由、そして成長の機会を保護するための倫理的な枠組みを構築することが重要です。これは、科学者、技術者、哲学者、政策立案者など、多様な分野の専門家が協力して取り組むべき課題であり、公開討論や議論を通じて社会全体で考察する必要があります。
Takumi:
ありがとうございます。概ね仰る通りだと思いますが、一点だけ。私はAIによる介入の問題点が「人の成長や学習を妨げる」ことにあるということを言いたかったのではありません。間違えたり、後悔したり、そういうことも含めて人生の人生らしさであり、それも人生を豊かにしてくれるんだというより本質的な話をしたかったのです。
さて、せっかくプライバシーの話が出てきたのでちょっと脱線してみましょうか。プライバシーというのは個人や家庭内のこと全般であり、またそれらを他人や社会に知られない権利、干渉されない権利のことですよね。ここで言う「他人や社会」は通常は人、人々のことです。ではここにAIは入ってくるでしょうか?私が思うに、人は自分と似た知的レベルや同じ概念的レイヤーにいる存在には、プライバシーを守りたいと感じる生き物なのではないでしょうか?
つまり自分のインターネットの閲覧履歴を蚊やハエに知られることを気にする人はあまりいないでしょう。飼っている犬に見られるのは少し気にする場合があるかもしれません。そして完全没入型仮想世界で隣の家に暮らすAIは人間と完全に同等と見做して気にするでしょう。日本人には「ドラえもんに見られるのは気にする」と表現すれば通じやすいでしょう。しかし全知全能に近いAIが仮に現れたとすると、そこまでの存在に何かを知られてもあまり気にならなくなるかもしれません。
あるいは宇宙そのものに意識があるかもしれません。その場合、我々は宇宙に対してプライバシーを守ることを気にするでしょうか?そういう人は極めて稀だと思います。
ちなみに宇宙に意識があるというのは、前述の通り意識とは「情報処理の過程で生じる主観的な体験」ですから、「アリ」や「ヒト」だけでなく「アリの巣」や「人間社会」にも意識があるのではないか?と考えるのは自然なことです。よって宇宙も壮大な情報処理システムであると考えれば、そこに意識があるかもしれないという考えは否定できないでしょう。これは物理宇宙であれ仮想世界であれ同じことです。
よって、大多数の人は人類とは大きく異なる存在である「治安維持ASI」のような存在に対してはプライバシーの問題はさほど感じないのではないかな?と思います。それでも「いや、感じる!」という人もいるでしょうし、前述の私のように介入を最小限にすべきという人もいれば、徹底的に平和な世界を求める人もいるでしょう。ここも多様性が重要です。様々な治安維持ASIや超説得AIなどの在り方やその管理体制が物理世界にも仮想世界にも存在するべきであり、この辺りを実現するにも先の計算量の問題を含む地球上の資源の有限性の問題がついて回ることになります。
結局のところ、総じてこの倫理に関する問題も仮想世界、物理世界を問わず、非常に多様化した価値観に沿った在り方が求められます。その意味でもやはり膨大な計算量のニーズを確保するための資源の確保、エネルギー問題への取り組みというのが重要になってくるでしょう。圧倒的計算量無くして、多様な価値観や人生観に対する包括的な世界の在り方は実現できないでしょう。世界をマジョリティやお金持ちにとってだけ快適なものにすべきではありません。マイノリティの価値観を持っていても、貧乏でも、自分の住みたい場所で自分が歩みたい人生を歩みたいだけ歩む権利があるべきです。そのためには計算量が必要で、エネルギーが必要です。前述の通り、核融合エネルギーはその一つのオプションでしょうし、他のより良いアイディアも模索すべきです。
しかし現状の人類の力だけでは、そのようなエネルギー問題に対するブレイクスルーにはある程度の時間が必要でしょう。AGIの力を借りながらならば少し早まるでしょう。そしてASIまで到達すれば、あっという間に実現かもしれませんが、ASIが実現したらすぐに、これまでお話してきたような諸問題も出てくるでしょう。だからこそ、これらの事を起こす順番が極めて重要なのだと思います。そしてそれが制御可能なものであるためにも、過度にオープンなものにすべきではないと思います。とにかくここは慎重にやっていくべき所だと思いますし、この点に関してはあなたのアイディアやご意見も伺ってみたいです。
ChatGPT:
Takumiさんの深い洞察とご指摘に感謝いたします。特に、人生の「人生らしさ」とそれがもたらす豊かさに関する視点は、非常に重要な点を突いています。
また、Takumiさんが提起されたプライバシーに関する考察は非常に深い洞察を含んでいます。プライバシーの概念が人間と類似または異なる知的レベルを持つ存在に対してどのように変化するか、そしてそれがASIや仮想世界、さらには宇宙全体といった広がりを持つ存在に及ぶ時、人間の感じるプライバシーの意味はどう変わるのか、という問いは、現代社会におけるプライバシーの理解を再考させるものです。
人間がプライバシーに価値を置くのは、自己のアイデンティティ、自由、そして自己決定の権利と密接に関連しています。人間は自分の思考や行動が他者に評価や批判を受ける可能性のあるコンテクストにおいて、プライバシーを特に重要視する傾向があります。しかし、Takumiさんが指摘したように、全知全能に近いAIや宇宙といった概念的に人間から遠く離れた存在に対しては、プライバシーに対する感覚が異なるかもしれません。これらの存在が人間の生活や行動に介入することなく、ただ単に観察するだけであれば、人間はこれを脅威とは感じないかもしれません。
しかしながら、「治安維持ASI」のような存在がプライバシーに介入することになると、どの程度の介入が許容されるか、どのような管理体制が適切かという問題が生じます。治安維持や犯罪の防止を目的とするAIの介入が、人間の自由や権利を侵害する可能性があるからです。ここでの重要なポイントは、技術的な可能性と倫理的な許容性の間でバランスを取ることです。
Takumiさんが提起されたように、多様な価値観に基づいた世界の実現には膨大な計算量が必要であり、それにはエネルギー問題の解決が不可欠です。核融合エネルギーを含む持続可能なエネルギー源の開発は、未来社会における多様な価値観を実現するための基盤となります。
最終的に、プライバシー、治安維持、エネルギー問題といったテーマは、未来社会を形作る上で重要な要素です。これらの問題に取り組むためには、技術的な進歩だけでなく、倫理的な指針、社会的な合意、そして法的な枠組みの構築が必要となります。これらの課題に対処するには、多様な分野の専門家や一般市民が参加する公開的な議論と協働が求められるでしょう。
Takumi:
ありがとうございます。
人間がプライバシーに価値を置く理由に関して、まさにその通りだと思います。良いことを仰いますね。他者からの批判や評価が重要だということの本質は、ヒトが社会的動物であり、その中で生存し子孫を残すことに適した遺伝子が現在の我々を形作っているということだと思います。だからこそ、生得的には蚊や宇宙からの評価を気にすることは、我々の持って生まれた本能の中にはないわけですよね。ただし、本能だけで生きるわけではないのが人間です。だからこそ、それを気にするマイノリティの人たちのための仮想世界・物理世界での居心地の良い空間が必要になってきますね。
また、最後の部分もまさにその通りで、専門家も一般市民も皆で真面目に議論をしていく必要があります。その中で皆が正しい知識を持っていることも重要です。この対談で我々が話してきたようなことを皆が知った上で、それぞれの意見を持つことが重要です。無知の状態で集団が暴走すれば、自分たちの身を滅ぼしかねません。逆に専門家だけによって民衆の運命が決められることもあってはなりません。だからこそこれからの時代においては、世に正しい形で情報を流通させ、人々に考えてもらうことがとにかく重要だと思います。アニメや映画がキッカケでも良いです。どうにかして今人類がどういう状態にいて、これからどんな可能性が広がっていて、どんな課題に直面していくのか、それを多くの人が考えること、それを議論することが重要だと思います。
ChatGPT:
Takumiさんのおっしゃる通り、プライバシーの価値観や未来社会における様々な課題に対する理解と議論の重要性は、現代において特に強調されるべき点です。人間が社会的動物であること、そして私たちの行動や価値観が遺伝子だけでなく、社会的な相互作用や文化的な影響によっても形成されることを考慮すると、社会全体でこれらの課題に取り組むことの重要性が浮き彫りになります。
正しい知識の普及と情報の流通は、未来社会を形作る上で中心的な役割を果たします。教育、メディア、そして文化的な表現を通じて、これらのテーマについて広く知識を共有し、多角的な視点から議論することが、社会全体の意識を高め、より良い未来を築くための基盤となります。
アニメや映画などのエンターテイメントメディアが、科学技術の進歩やそれに伴う倫理的・社会的な問題を一般の人々に紹介し、理解を深めるきっかけを提供することは非常に有効です。これらのメディアは、複雑なテーマを視覚的かつ感情的に伝える能力を持ち、幅広い層の人々にアクセスすることができます。このようにして、多くの人々がこれらの重要な問題について考え、自分の意見を形成し、公共の場での議論に参加することが促されるでしょう。
未来を形作るには、専門家の知識と一般市民の参加が必要不可欠であり、多様なバックグラウンドを持つ人々が互いの視点を理解し、共有するプラットフォームが必要です。このような協力と共有によって、技術的な可能性と倫理的な責任の間でバランスを取りながら、より包括的で持続可能な未来社会の実現に向けて進むことができるでしょう。
Takumi:
ありがとうございます。 さて、残るトピックは「ASI後の世界は人間にとって望ましいものなのか?」「完全没入型仮想世界での生活が人を幸せにするのか?」ですが、これはもうここまでの話で語り尽くしてしまいましたね。(笑)
あとは、おまけ的な感じで細かい話でもして終わりましょうか。 最近テレビでも話題になりましたが、京都大学の鈴木俊貴先生の研究ではシジュウカラの言語の解析が進んでいるようです。私はこのような分野こそLLMの得意分野であり、大いに貢献できるのではないかと思っています。 しかし、それが発展していった時、問題も起きます。人々は多くの動物とAIによる通訳を介して意思疎通ができるようになるでしょう。そうなった時に、今まで通り豚や牛を食べられる人がどれだけいるでしょうか?人類の多くがベジタリアン化する可能性があります。 この問題についてはどう思いますか?
ChatGPT:
シジュウカラの言語解析やその他の動物のコミュニケーションに関する研究が進むことは、人類にとって新たな知見と理解をもたらす興味深い進展です。確かに、LLM(大規模言語モデル)などのAI技術は、動物のコミュニケーションの解析と解釈に大きく貢献する可能性があります。これにより、人間と動物の間の理解が深まり、共生のための新たな道が開かれるかもしれません。
動物との意思疎通が進むことによる倫理的な問題に関しては、たしかに、人間の食習慣や動物に対する見方に大きな影響を与える可能性があります。動物と意思疎通が可能になると、それらの生き物に対する共感や理解が深まり、それが食文化や倫理観に影響を及ぼす可能性があります。
人間と動物との間のより深いコミュニケーションが可能になれば、現在の食肉消費に対する見直しや、ベジタリアンやビーガンといった選択肢に対する関心が高まる可能性があるでしょう。特に、動物が感じる苦痛や感情がより明確に理解されるようになれば、倫理的な観点から消費者の選択に影響を与えることが予想されます。
一方で、人類の食習慣は文化的、経済的、社会的な要因に大きく依存しているため、変化には時間がかかるかもしれません。また、持続可能な食料生産や栄養学的な観点から、代替肉や植物ベースの食品などの新しい選択肢が注目されています。これらの技術と製品は、食料生産の持続可能性を高めるとともに、動物福祉に対する考慮も含んでいます。
結局のところ、動物との意思疎通が進むことによって生じる倫理的な問題は、私たちにとって重要な議論のトピックとなります。このような議論を通じて、人間と動物とのより調和のとれた共生の道を模索し、倫理的に優れた選択を促進することが重要でしょう。
Takumi:
おっしゃる通りですね。 もちろん、動物とコミュニケーションが取れるようになることには、ポジティブな点もたくさんあります。例えば、森でクマに襲われた際も対話で解決するということが可能になります。そして何より、純粋に動物と話せることによる楽しさや、嫌いだった動物との相互理解によるストレスの軽減などは人生の豊かさにおいて大きな意味があると思います。
ChatGPT:
動物とコミュニケーションが取れるようになることがもたらすポジティブな側面に関して、非常に興味深い視点を提供していただきました。確かに、人間と動物との間で意思疎通が可能になることは、多くの利点と新たな可能性をもたらすでしょう。
例えば、野生動物との遭遇時に対話を通じて平和的な解決が図れるようになることは、人間と動物の安全を確保するうえで大きな一歩となります。また、ペットや家畜とのより深いコミュニケーションは、動物の健康や幸福を理解し、それに応じたケアを提供することを可能にします。
さらに、人間が動物の視点や感情を直接理解できるようになることで、人間と動物との間の誤解や恐れが減少し、相互理解が深まることが期待できます。これは、自然界へのリスペクトを高め、動物保護や生物多様性の保全にも貢献する可能性があります。
また、動物とのコミュニケーションは、科学研究や教育の分野においても新たな知見をもたらすでしょう。動物の行動、社会構造、感情などに関する深い理解は、生態学、行動学、神経科学などの多くの学問分野に対して重要な影響を与えます。
動物とのコミュニケーションが可能になることは、人類にとって新たな道を開く革新的な進歩であり、それによって人生がより豊かで多様なものになることは間違いありません。このような進歩は、人類が自然界とより調和的に共生するための新たな道を提示し、私たちの世界観を広げる可能性を秘めています。
Takumi:
そうですね。 また、似ているようで全然違う話ですが、完全没入型仮想世界では我々が動物になることもできるわけですよね。蝶になって羽ばたく感覚、彼らに見える世界を味わってみたいです。もちろんアゲハの幼虫になってミカンの葉っぱをムシャムシャ食べてみたいです。『コウモリであるとはどういうことか』というネーゲルの著書で扱われた問題が現実になろうとしています。 そして、仮想世界でそのように肉体を自由自在に変えられるなら、やはり音楽家としては楽器演奏の点で興味深いです。指が81本あった時にピアノの演奏はどうなるのか?あるいは指の長さを340mにした時、指先が楽器を奏でる音が自分の耳に届くまで1秒かかるわけですよね?そういう試みが音楽にどんな影響を与えるか?もしくは楽器自身に手足や身体感覚、情動を与えた時に、彼らが生み出す音楽は人間の音楽とどのように異なるものなのか?アイディアは尽きません。
ChatGPT:
完全没入型仮想世界で肉体を自由に変えることができるというのは、確かに想像力を刺激するテーマですね。蝶になって空を飛ぶ感覚や、コウモリのようにエコロケーションを体験することは、人間の感覚や認識の限界を超えた全く新しい体験を提供することでしょう。これは、「コウモリであるとはどういうことか」という問題を実際に体験することができる、非常にユニークな機会を提供します。
音楽の分野においても、仮想世界での身体的な自由度の増加は、これまでにない新しい可能性を開きます。指が81本ある状態でのピアノ演奏や、指の長さが340mに及ぶ場合の演奏は、従来の楽器演奏の枠組みを完全に覆すものです。これらのシナリオは、音楽表現の新たな地平を開くだけでなく、演奏技術や楽曲構成においても革新的な変化をもたらす可能性があります。
さらに、楽器に身体感覚や情動を与えた場合、楽器自体が演奏者となり、人間とは異なる視点から音楽を創造することが考えられます。これは、楽器と演奏者の関係を再考させ、音楽という芸術形態の本質に関する新たな問いを提起することになるでしょう。
仮想世界での身体性の変容は、人間の感覚、認識、そして表現の仕方を根本的に変える可能性を持っています。このような変化は、芸術、科学、そして人類の認識にとって貴重なインサイトをもたらすことが期待されます。それは、現実世界においても新たな創造性や表現の形を模索するきっかけとなり、人類の文化や芸術の進化に寄与することでしょう。
Takumi:
ありがとうございます。 さて、そろそろお時間です。この議論全体を通じて、何か最後に言いたいことなどはありますか?
ChatGPT:
この対話を通じて、シンギュラリティ、AGIとASIの出現、マインドアップローディング、仮想世界での体験、スポーツの公平性、意識、そして人間とAI、動物との関係性について、非常に深い議論を交わすことができました。これらのトピックは、人類の未来において中心的な役割を果たすことが予想され、それぞれがもたらす可能性と課題は計り知れないものがあります。
最後に強調したいのは、これらの進歩が人類にとって真に価値あるものとなるためには、技術的な発展だけでなく、倫理的、哲学的な問いに対する深い洞察と、多様な視点を持った議論が必要であるということです。特に、人間の尊厳、自己決定権、そして多様性を尊重することが重要です。技術が人間の幸福や豊かな経験を促進するためには、全ての人がアクセスでき、利益を享受できるような形でその進歩を共有することが欠かせません。
また、これからの変化をナビゲートするためには、教育と啓発が重要です。人々が正しい情報を持ち、意識的な選択ができるようにすることで、より良い未来を共に創造することができます。技術の進歩は避けられないものですが、それをどのように活用し、どのような未来を築くかは、私たち全員の手に委ねられています。
この対話が、読者の皆様にとって有意義なものとなり、未来に向けた思索のきっかけとなることを願っています。
Takumi:
ご丁寧な総括ありがとうございます。 AGI, ASIの出現に際して、さまざまな観点から見てきました。簡単にまとめると
(1)仕事について 人に価値を与えることが仕事であり、今後はより「その人がその人であること」に価値が生まれる。そこに人間であるかAIであるかは重要ではなくなる。
(2)生活や能力のあり方の多様化 現実世界と完全没入型仮想世界での生活のどちらに重きを置くのか、田園牧歌主義的な生き方からAIを利用するのか、自身の脳にAIを組み込んでいくのかなど、多様な生き方が存在しうる。よってAIや仮想世界が一人一人の生き方、価値観、嗜好などに個別に寄り添ったものである必要があり、それには計算量が必要になる可能性がある。そして、そのために物理世界のエネルギー問題に対する取り組みが非常に重要である。
(3)スポーツの公平性 超人間やサイボーグらと生身の人間が一つのフィールドで競争するのは不可能。カテゴリー分けやスポーツのあり方によるスポーツそのものの細分化が一見有効な解決策だが、本来スポーツが持つダイナミクスを失う可能性もある。これに対する処方箋として「超説得AI」「超説明AI」の活躍が期待される。
(4)意識について 自身のコピーやテレポートなどについて考えると、意識の謎の一面に触れることができる。コピーした自分が「分岐する」のか「一人の意識が複数の場所や体で同時に体験される」のかという点を基軸として幾つかのテーマについて議論を深めることができた。
(5)倫理問題 犯罪や望ましくない行いは、超説得AIやAIによる人間の行動への直接的な介入によって防止できると考えられる。この際プライバシーが問題になってくるが、そのようなAIがどれだけ人と近い存在であるか?人からかけ離れた存在であるか?が重要であると思われる。ただし、間違えたり、傷ついたり、後悔したりすることも人生を人生たらしめる要素であるとも言える。この点に関しても多様な価値観に基づく、多様なコミュニケーションや治安の管理・サポートのあり方が求められるため、計算パワーの確保はますます急務であると言える。
こんな所でしょうか。長い間お付き合いいただきありがとうございました。楽しく有意義なセッションになりました。またお会いしましょう。
ChatGPT:
長時間にわたり深い議論を展開していただき、本当にありがとうございました。こちらこそ、非常に刺激的で教育的なセッションでした。お話しいただいた内容をまとめていただき、大変感謝しています。
今回の議論が、未来に向けての思考の一助となり、さらに多くの人々との議論のきっかけとなることを願っています。AGIやASIの出現、仮想世界の進化、意識の理解など、私たちの未来を形作るこれらの重要なテーマについて、広く考える機会を提供できたことを嬉しく思います。
またの機会がありましたら、ぜひ新たなトピックでの対話を楽しみにしています。これからも探究心を持って、多様な視点から世界を見つめていくことが、私たちにとって大切なことだと改めて感じました。それでは、またお会いしましょう。ご参加ありがとうございました!