「私が私であること」「あなたがあなたであること」「オンリーワンであること」…、それらの意味が問い直される時代、それが既に始まりつつある。今後、AGIの到来、そしてシンギュラリティに向けて、社会通念は大きく変化していくこととなる。筆者は、こうした現状を踏まえ、「私とは何か?」「何がその人をその人たらしめるか?」についてGeminiとの議論を行い、内容を以下にまとめることとした。
1. 「昨日の私」と「今日の私」は別人か?
筆者は以前の記事で、「昨日の自分と今日の自分ですら、分子レベルでも脳の機能レベルでも変化しており、厳密には同一人物とは言えないのではないか」という視点をご紹介した。我々の身体は日々代謝し、脳内のシナプス結合も常に書き換えられる。それでも記憶を介して「昨日の自分と今日の自分は連続している」と感じているに過ぎない、と。
当時、この「自己同一性」の問題は、マインドアップローディングという技術を考える上で避けて通れないため扱ったが、実は我々の日常、そして「他者」との関係性にも深く関わっている。
2. 「変わらないもの」としての遺伝子、その限界
この議論に対し、「遺伝子は変わらないのではないか?」とい指摘も可能だ。確かに、個人の遺伝情報は生涯を通じて基本的に不変であり、生物学的な個体としての連続性の基盤となっている。しかし、これが「私」や「その人」を規定する絶対的な答えになるだろうか。
例えば、一卵性双生児はほぼ同一の遺伝子を持つが、彼らがそれぞれ独立した自我、異なる主観的体験を持つことは明らかだ。もし遺伝子が自我を完全に規定するなら、二人は一つの自我を共有することになるはずだが、現実はそのようには見えない。この一点だけでも、「私が私である」という答えを遺伝子のみに求めることの難しさが露呈する。
さらに言えば、遺伝子が「連続した自我を有する主観的意識」の絶対的な必要条件であるかどうかも、実は自明ではない。もし意識が、特定の物質(DNA)ではなく、情報処理パターンや機能として成立しうるならば(例えばマインドアップロード後のデジタルな意識や、高度なAI)、遺伝子はその普遍的な必要条件とは言えなくなる。現状、この仮定の正当性は証明されていないため断定は避けるが、少なくとも「遺伝子=その人」という図式に疑問を投げかけるには十分だろう。
3. 変化の本質と「テセウスの船」の問い
変化という点では、古代ギリシャの哲学者たちが投げかけた「テセウスの船」のパラドックスが示唆に富む。船の部品が一つずつ交換され、やがて全ての部品が元のものと入れ替わったとき、その船は依然として同じ「テセウスの船」と言えるのか、という問いだ。これは、まさに私たち自身の身体や精神が日々変化し続けることと重なる。
このアナロジーを人間関係、例えば恋人に適用してみるとどうだろうか。「今の恋人は、1年前に愛を誓った恋人と、果たして同じ存在なのだろうか?」と。物理レベルでは、分子構造もシナプス結合も、そして情報レベルでは、記憶や価値観すら変化しうる。もし「あなたと付き合う」と約束した当時の恋人と、今の恋人が実質的に「別の存在」であるなら、私たちは何をもって「同じ人」と認識し、関係を継続しているのだろうか。そこには「契約の相手が(実質的に)変わってしまったのに、関係を継続しているのは、当初の契約の精神に反するのではないか?」「それは浮気なのではないか?」という問いかけも生じ得てしまうのだ。
もちろん、これはアナロジーであり、極端な問いかけかもしれない。しかし、この問いは、「何を持ってして “その人” とするのか?」という本質的な問題を我々に突きつける。
4. 「その人」を規定するのは何か? ―パターン認識と「記憶が意識を形作る」
私たちは日々変化し続ける。物理レベルでも情報レベルでも、1年前の自分は今の自分と同一ではない。他者も同様だ。それにもかかわらず、私たちは自分自身を「私」として連続的に認識し、他者を「Aさん」「Bさん」として認識する。これはなぜか。
ここで鍵となるのが、筆者が以前の記事で述べた「記憶が意識を形作る」という考え方と、レイ・カーツワイルらが提唱する「パターン認識」という知性の本質だ。私たちは、絶え間ない情報の流れの中から、ある種の「パターン」を知覚し、それを「私」あるいは「Aさん」として認識しているのではないだろうか。記憶とは、そのパターンを形成し、維持するための重要な要素だ。
つまり、自分自身については、蓄積された記憶とそれを処理する機能によって「私というパターン」が形成され、それが連続した自我の感覚を生む。他者については、その人の言動、外見、過去の記憶の断片などから「Aさんというパターン」を認識し、それをAさんと見なす。たとえその構成要素が時間とともに変化しても、パターンとしての一貫性が認識される限り、「その人」であり続けるのだ。
さらに分かりやすく例えてみよう。
ある存在が時間(t)と共に、t=1で(1,2,3)、t=2で(2,3,4)、t=3で(3,4,5)と状態を変えるとしよう。一見、時間と共に「別物」になるように感じる。しかし、その変化の奥に、我々はある種の「規則性」を見出せるだろう。それは、時間tを入力として(t, t+1, t+2)を出力する関数である、というパターンだ。この時間軸の俯瞰によって認識されうるパターンこそが「私」を「私」たらしめ、「Aさん」を「Aさん」たらしめる、自我の根幹であると筆者は考える。
5. 人格は幻想か? ―我々の心の中の構成物―
ここまで考察を進めると、ある結論が浮かび上がってくる。
「私というパターン」「他者Aさんというパターン」といったものを生み出すのは、究極的には「私の認識」である。自己であれ他者であれ、その人をその人たらしめているのは、自分自身の認識なのだ。
「私が私である」という感覚(連続した自我を伴う主観的意識)もまた、過去の記憶や経験という情報から「私というパターン」を脳が(あるいは情報処理システムが)再構成し、それを主観的に体験している結果であると解釈できる。
他者Aさんに対しても、Aさん自身が物理的・情報的に変化し続けているにもかかわらず、私たちが「これはAさんだ」と認識し続けるのは、私たちの脳がAさんの変化の中から一貫した「Aさんというパターン」を見出し、それをAさんとして「構成」しているからだと言える。
言い換えれば、「人格(その人であること)」とは、客観的に固定された実体として存在するのではなく、私たちの認識が時々刻々と変化する情報の中から「パターン」として抽出し、意味づけを与えた結果としての「構成物」、あるいは「物語」であり、ある種の「幻想」に過ぎないのではないか。
ここで言う「幻想」とは、単に「存在しない虚偽」という意味ではない。「実体として自存するものではなく、認識によって立ち現れる現象(認識依存的な現象)」という意味合いだ。つまり、人格とは「(記憶力とその処理能力などの)時間軸を俯瞰しパターンを知覚する能力を有する情報処理システムの心の中に生じるパターン。およびラベリング。」であると結論づけることができるだろう。
6. 終わりに
「私」とは何か、「その人」とは何か。これらの問いに絶対的な答えはないのかもしれない。しかし、その実体が認識の産物であるとするならば、私たちは自らが構成する「私」や「他者」という物語に対し、より意識的で、創造的な関わり方ができるはずだ。この考察が、読者諸氏自身の自己理解や他者理解の一助となれば幸いである。
Takumi, Gemini