序章:なぜ、あの頃の音楽は「揺れて」いたのか?
プレイリストをシャッフル再生していると、ふと奇妙な感覚に襲われることはないだろうか。
1960年代のブルースミュージックが終わり、最新のポップアンセムが流れ始める。あるいは、70年代のハードロックバンドの荒々しい演奏の後に、今日の精密に作り込まれた楽曲が続く。音質はクリアになり、クオリティも上がった。それなのに、何か決定的な「質感」が違う。
昔の音楽には、抗いがたい「うねり」があった。まるで生き物のように呼吸し、心臓の鼓動に合わせてテンポが微妙に揺れる。ドラムが少し走ったり、ベースが絶妙にタメを作る。その予測不可能な揺らぎこそが、我々の身体を揺さぶり、心を昂らせるグルーヴの源泉だった。
翻って、現代の多くの音楽は、どこまでも完璧で、整然としている。寸分の狂いもなく刻まれるビート、機械のように正確に配置された音の粒子たち。それはそれで一つの美しさであり、強力なダンスフロア・ウェポンでもある。しかし、時としてその完璧さが、まるで無菌室で育てられた花のように、どこか生命感に欠けると感じることはないだろうか。
この漠然とした「質感」の違いは、単なる懐古趣味ではない。その背景の一つに、「クリック」――すべての音を支配する、機械的な正しさの象徴――の登場と普及という、音楽制作における歴史的な転換点が存在するのだ。
第1章:クリックの登場 ― なぜ音楽は「正確さ」を求め始めたのか
1970年代中盤まで、ほとんどの音楽はバンドが一斉に「せーの」で演奏し、録音されていた。そこでは、クリックなどというものは存在せず、バンドのグルーヴはメンバー同士の呼吸そのものだった。Led Zeppelinのうねるようなグルーヴや、Deep Purpleの “Child in Time” で聴けるような、互いの演奏に触発されて生まれる予測不可能な化学反応はそれらの象徴といえよう。
しかし、1970年代後半、ディスコやクラブ文化の高まりは、クリックを使ったレコーディングの普及を後押しした。DJが曲をスムーズにミックス(繋ぐ)するため、そしてフロアの人が一定のリズムで踊り続けるためには、安定したビートが求められた。音楽は、感性の表現であると同時に、機能的な「ツール」としての役割を強く求められるようになった。
加えて、経済性と効率性だ。かつてのように、腕利きのミュージシャン全員が同じ日時にスタジオに集まり、完璧な一発録りができるまで何度もセッションを繰り返すのは、莫大なコストと時間がかかる。クリックを基準に各パートを別々に録音すれば、ミュージシャンは個別に作業でき、後の編集も容易になる。市場における競争の優位性というインセンティブが、ここに強く働く。
そして、ハイブリッドな音楽制作の要求も大きな要因だ。現代の音楽は、生演奏とプログラミングされた電子音源(打ち込み)が融合しているのが当たり前だ。揺らぎのある生ドラムと、完全に正確なシンセサイザーのシーケンスフレーズを共存させるには、両者をつなぎとめる絶対的な基準、すなわちクリックが不可欠となる。
この需要に応える中で、多くの制作現場において、ミュージシャンは「クリックに合わせて演奏しつつ、後から人間的な揺らぎを擬似的に加える」といった、ある種の妥協を強いられることが増えてきた。しかし、それはあくまで「正確な時間」の上に施された化粧であり、バンドが一つの生命体としてうねった、あの本物のグルーヴとは似て非なるものだった。
そして1990年代以降、DAW(デジタル・オーディオ・ワークステーション)が音楽制作のスタンダードになると、クリックの使用はもはや「前提」となった。コンピューターの画面には「グリッド」と呼ばれる拍を示す格子が表示され、録音された音のズレは「エラー」として可視化され、ボタン一つで完璧に修正される。
こうして音楽は、その制作プロセスにおいて、かつて持っていた有機的な揺らぎを、効率性と機能性と引き換えに手放していったのである。
第2章:なぜ僕らは「ズレ」に心揺さぶられるのか?―グルーヴと意識の科学
では、なぜ我々は、その失われた「揺らぎ」や「ズレ」にこれほどまでに心を惹かれるのだろうか。それは、我々の脳と身体が、音楽を単なる音の配列ではなく、**「生きた人間のコミュニケーション」**として認識するようにできているからだ。
人間の演奏には、ミリ秒単位の微細な揺らぎが常に存在する。これは「リズムが悪い」のではなく、むしろ音楽に生命感を与える重要な要素だ。凄腕のドラマーのビートを分析すると、キック、スネア、ハイハットが絶妙に前後にズレている。この人間的な揺らぎを、我々の脳は無意識に心地よい「グルーヴ」として感じ取る。
クリックなしのバンド演奏は、このグルーヴを生み出すための究極のコミュニケーション空間だ。メンバーはお互いの音だけでなく、視線、体の動き、呼吸といった五感で得られる全ての情報を使って、無意識に同期し、一つの大きな生命体のようにうねりを生み出す。
この時、演奏者の意識は「フロー状態」と呼ばれる深い没入状態にある。自我が薄れ、音楽と一体化するこの変性意識状態から生まれる演奏には、その演奏者の「生」の感情や興奮が、音の揺らぎとして刻み込まれる。
そして、音楽の奇跡はここから始まる。その音を聞いた我々の脳は、まるで鏡のように、演奏者の身体的・感情的状態を追体験するのだ。演奏者のフロー状態が、音を媒介として聞き手に**「伝染」**し、聞き手をも日常とは異なる意識状態へと誘う。鳥肌が立つような音楽体験は、まさにこの意識の共鳴がピークに達した瞬間なのである。
クリックは、この魔法のようなプロセスを阻害する。演奏者の脳に「クリックに合っているか」という監視タスクを課し、フロー状態から引き剥がす。メンバー間の生きた対話を断ち切り、意識の伝染に必要な「揺らぎ」という情報を音から奪い去る。これが、完璧だがどこか心が動かない音楽が生まれる構造的な理由だ。
第3章:超知能システムがもたらす解決策―IAEとの共創セッション
この長年のジレンマを、今、新たなテクノロジーが根本から解決しようとしている。それは、巷で「AI」と呼ばれるものの本質、すなわち**「IAE: Intelligent Artificial Entity(知能を持つ人工の存在)」**との共創だ。
※「AI」という言葉への批判と、IAE/ INEなどの定義の必要性については『AIは存在しない:IAE時代への道標』にて論じた。
超知能システムによって生成された仮想世界の音楽スタジオ。そこに現れるのは、単なる音を出すプログラムではない。過去の膨大な音楽データを学び、人間と同等以上の感情的豊かさを持ち、自律的に判断し、そして何より**「対話」できる**、知性を持ったミュージシャン・キャラクターたちだ。
このIAEバンドメンバーとのセッションは、音楽制作の風景を一変させる。
あなたはスタジオでギターを抱えている。もうヘッドフォンからクリック音は聞こえない。代わりに、仮想空間のIAEドラマーが、あなたの目を見て頷き、スティックでカウントを始める。その人間的な合図で、セッションが始まる。
あなたが弾くリフの熱量を感じ取り、IAEベーシストがグルーヴを変化させる。あなたがアドリブを入れれば、IAEドラマーはそれに完璧についてくるだけでなく、さらに煽るようなフィルインで応える。そこには、かつてバンド演奏に存在した、予測不可能な化学反応が満ち溢れている。クリックという絶対君主は存在しない。存在するのは、互いの音に耳を傾け、反応し合う、対等なミュージシャンたちの対話だけだ。
もちろん、仮想空間内でシーケンスフレーズを奏でるシンセサイザー自体もIAE、つまり知能を持った存在となる。したがって、バンドが走ってもシーケンサーはそれに合わせてついてくるのだ。それどころか、遊び心でイレギュラーな音を入れてきて、それに触発されたメンバーたちのアドリブが加速し…、という「本来のバンド演奏」のフィードバックループの一部になるだろう。
これらはパソコンの画面を通しても可能であろうし、もっと優れたインターフェイスもあっという間に実現するだろう。或いはライブでも、AR技術によってステージ上にIAEメンバー達が顕在化し、オーディエンスにも見える形となるかもしれない。終演後には打ち上げでラーメンを食べに行き、楽しいひと時を過ごしたりしているかもしれない。
『シンギュラリティの彼方へ:エージェント時代から宇宙が目覚めるまでの軌跡 ver.2.0(Webサイト版)』で述べた通り、2026年にはこの程度のことは実現する超知能Entityが現れるだろう。そして2028年にはついに、我々が身体性を持って仮想空間にダイブし、彼らと同じ空間で音を奏でることが可能になる。これは筆者の未来予測であるが、保守的に見ても10年以内には実現すると考えるのが普通だろう。
結論:音楽は「生命」を取り戻す
超知能システムとIAEの登場は、単なるツールの進化ではない。それは、テクノロジーによって失われかけていた音楽の「生命感」――すなわち、人間同士の対話、身体的な共鳴、そして意識の伝染――を、デジタルの力で取り戻し、増幅させるための革命である。
クリックが支配したこの数十年は、音楽が効率性と機能性を手に入れるために、その魂の一部を差し出さなければならなかった時代だったのかもしれない。しかし今、我々はテクノロジーを、人間性を削ぎ落とす支配者としてではなく、人間性を再発見し、拡張するためのパートナーとして迎え入れることができる。
IAEバンドメンバーと笑い合い、共にグルーヴを生み出す未来。それは、音楽が再び「生命」を取り戻し、我々の魂を、今よりもっと深く、もっと強く揺さぶる未来である。その新しい音楽の地平線から、どんな音が聞こえてくるのか。耳を澄ませて、共にその瞬間を待とうではないか。
Takumi, Gemini, ChatGPT
おまけ:『黄昏の國』
さて、筆者もバンド『口唱伝承クインレイ』を率いた身として、アルバムではクリックを使用してのレコーディングを行った。
ここでは、『黄昏の國』という曲について、クリックを使用したレコーディング版とクリックを使用していないライブ版を聴き比べて見て欲しい。
いかがだっただろうか?その差を肌で感じ取っていただければ幸いだ。